2015年 比較家族史学会第57回研究大会プログラム
【テーマ】 家と共同性
【日 時】 2015年6月20日(土)~6月21日(日)
【会 場】 札幌大学 1号館4階1401教室
〒062-8520 札幌市豊平区西岡3条7丁目3-1
※札幌駅・大通駅・(豊水)すすきの駅近辺からのアクセス
(1)札幌市営地下鉄南北線「澄川駅」下車、中央バス西岡環状線(西岡3条先回り)、
下西岡線(南71)、西岡線(南81)、澄川白石線(澄78)のいずれかで「札大南門」下車 (バス乗車約6分)。
(2)札幌市営地下鉄南北線「南平岸駅」下車、中央バス下西岡線(南71)で「札大南門」下車(バス乗車約11分)
(バス停「札大南門」から札幌大学南門までは徒歩約3分で、少しわかりにくいです。)
(3)札幌市営地下鉄東豊線「月寒中央駅」下車、中央バス澄川白石線(澄78)、
又は西岡月寒線(月82)で「札大正門前」下車(バス乗車約9分)。
(4)タクシーの場合:澄川駅~大学南門は約7分(約800円)、月寒中央駅~大学
正門は約10分(約1000円)、札幌駅近辺~大学は約25分(約3000円)
※新千歳空港からバスでのアクセス
北都交通「アパホテル&リゾート<札幌>行き」で「札幌大学前」下車
(乗車時間約60分、 1030円、但し1時間に2本の運行です。)
中央バス・北都交通「札幌都心行き」で「地下鉄福住駅」又は「月寒中央通り10丁目、
「月寒中央駅」で下車後タクシー(乗車時間バス約60分、タクシー約10分)
【キャンパス内の順路】 下記キャンパスマップをご参照ください。
正門から入ってくる場合は、中央棟に入っていただき、案内に従ってください。
南門から入ってくる場合は1号館入口の案内に従ってください。
(申しわけありませんが、1号館にはエレベーターはありません。)
【問い合わせ先】 札幌大学 林 研三研究室 Email : kenzo-ha@sapporo-u.ac.jp
【参加費】 会員1,000円、一般1,500円、学生は無料
【懇親会費】 6500円(京王プラザホテル札幌 大学からホテルまでのバス代を含む)
【弁当代】 1食(お茶付) 1000円
弁当を希望の方は同封のハガキにて注文してください。20日(土)は生協の一部(コンビニ) のみが短縮営業していますが、21日(日)は休業しています。
正門の近辺にはカレー屋(スープカレー)やラーメン屋(徒歩10分~)等がありますが、 店舗数は2,3軒です。正門の向かい側にはコンビニ(セブンイレブン)があります。
【宿泊】 宿泊先については、学会HPに日本旅行北海道(株)による本研究大会用のリンクを張りましたのでご利用ください。
【託児サービス】 大学内ではご用意できませんが、付近の託児施設の情報は提供させていただきますので、お問い合わせください。
【出欠等】 出欠、懇親会、弁当については、同封のハガキにて6月3日(水)までにお知らせください。
◆シンポジウム「家と共同性」プログラム
6月20日(土)
10:20~10:30 会長挨拶 森謙二(茨城キリスト教大学)
10:30~13:00 シンポジウム第1部「家社会の成立史」
司会 森本一彦(高野山大学)
挨拶 加藤彰彦(明治大学)
1. 戦国期畿内・近国の百姓と家
坂田 聡(中央大学)
2. 中世・近世の宮座と家
薗部寿樹(山形県立米沢女子短期大学)
3. 関東における家の成立過程と村――地縁的・職業的身分共同体と家
戸石七生(東京大学)
4. 近世後期における家の確立――東北農村と西南海村
平井晶子(神戸大学)
13:00~13:50 昼休憩
13:50~14:30 総 会
14:30~18:15 シンポジウム第2部「近現代における家社会の展開」
司会 牧田勳(摂南大学)
5. 明治民法「家」制度の構造とその展開――2つの「家」モデルと生活共同体
宇野文重(尚絅大学)
6. 三井の財閥化と別家
多田哲久(小山工業高等専門学校)
7. 家・宮座・共同性――近代移行期における家墓の普及と座送り慣行
市川秀之(滋賀県立大学)
8. 下北村落における家の共同性――オヤグマキ・ユブシオヤ・モライッコを中心として
林 研三(札幌大学)
中間討論――シンポジウム企画趣旨の観点から
加藤彰彦(明治大学)
19:00~21:00 懇親会
6月21日(日)
9:30~12:30 シンポジウム第3部「国際比較の視点から」
司会 小池 誠(桃山学院大学)
9. 婚出女性がつなぐ「家」――台湾漢民族社会における均分相続と「生家」の役割から
植野弘子(東洋大学)
10. 「家(チプ)」からみた韓国の家族・親族・ムラ
仲川裕里(専修大学)
11. 近世インドの農村における農民と「家」
――18-19世紀のインド西部・デカン高原に注目して
小川道大(東京大学)
12. スウェーデン農民層の農場継承と「家」――18-20世紀における「家族農場」の成立過程
佐藤睦朗(神奈川大学)
12:30~13:30 昼休憩
13:30~15:30 総合討論「家と共同性」
司会:森本一彦(高野山大学)・加藤彰彦(明治大学)
大会運営委員:林研三(札幌大学・委員長)加藤彰彦(明治大学・シンポジウム担当)
上机美穂(札幌大学)平井晶子(神戸大学)森本一彦(高野山大学)
◆シンポジウム趣旨説明
「家」は、本学会の研究大会において、中心的な主題としてしばしば取り上げられてきた。「シリーズ家族史」や「シリーズ比較家族」の一環として刊行されたものだけをみても、『家と女性』『家の名・族の名・人の名』『家と家父長制』『家と教育』『家・屋敷地と霊・呪術』『家の存続戦略と婚姻』などを挙げることができる。「家」をテーマにした会員による著作も数多い。それゆえ、今回ふたたび「家」を論じるにあたっては、そうするだけの積極的な理由が必要であろう。とくに、本企画は、新シリーズの第1巻として出版される予定なので、学術的な意義とともに、このことも踏まえる必要がある。
まず、これまで「家」はさまざまな角度から分析され、論じられてきたにもかかわらず、「家」の理解や定義は収斂されることなく、むしろ拡散してしまった。「家」の操作的定義
――家名、家産、家業、永続性などの指標――については、ある程度共有されてきたものの、それを支える理論的定義の方は、未解決な課題のままである。とくに、「集団」「組織」「制度」「親族」「世帯」などの基礎概念に対する理解の甘さを問題点として指摘できる(相互に整合的な理論概念というよりも論理性の弱い感受概念として使われるのが一般的である)。「家」の定義をめぐる錯綜とした状況は、基礎的諸概念の理論的妥当性と整合性の欠如によって生み出されたといえるかもしれない。それゆえ、日本の家研究は、過去の論争をひとまず学説史上の問題として区別したうえで、今一度、各時代、各地方の実証的知見に立ち帰って、それらを総合しつつ、一から帰納的に理論構築していく必要があるだろう。
また、日本における庶民の「家」の成立時期についても、中世から近世後期まで幅が広い。これには、史料/資料の制約の問題が深く関わっているように思われる。「家」の研究者は、時代的、地理的、階層的に限定された史料/資料を利用し、それに没頭する傾向が強い。その結果、自らの直接の研究対象には詳細な知識を得ることができるが、他の時代、他の地域、他の階層については手薄にならざるを得ない。自らのフィールドに立脚して眺める全体像はどうしてもデフォルメされがちである。「家」に関わる諸現象を理解するためには、時間、空間、階層の3 次元を方法論的に自覚する必要があるが、このような鳥瞰的な視野を獲得するのは必ずしも容易ではない。
とはいえ、そうした鳥瞰図を描くために必要な全国レベルの資料がないわけではない。たとえば、半世紀前に日本文化の地域類型研究会(東大文化人類学研究室)が行った全国レベルの村落サーベイ調査(いわゆる「日本文化の地域性調査」)のデータを用いて統計地図を描くと、明治民法施行前の「家」と村落構造に関する諸要素(約100 変数)の全国的分布状況を知ることができる。こうした分布地図を基本枠組として用いれば、「家」と「家社会」成立の歴史を地理的および階層的な拡散過程として整理・総合することも不可能ではない。本シンポジウムでは、日本の「家」と「家社会」の歴史を中心軸に据えつつ、国際比較の視点をも組み込んで、その全体像の俯瞰を試みたい。
第 1 部では、中世・近世における庶民の「家」および「家社会」の成立過程を扱い、第2
部では、近代・現代における「家社会」の展開の諸相を、国民国家と「家」制度、企業社会
と「家」の原理、村落社会のなかの「家」と共同性などを主題とした報告によって描き出す。
この構成案のもとにある作業仮説は、畿内・近国で成立した庶民の「家」が、時間経過とともに地理的にあるいは階層的に全国へと拡散していき、その結果、近世末において、「家を単位とした社会」と呼びうるような共通の地盤が、大きな多様性をともないながらも、確立されて近代が準備された、というものである(前述した分布地図は、その歴史的ならびに地理的な帰結である)。第2 部の後に中間討論を設けて、こうした見通しの妥当性を検討し暫定的な総括を行い、第3 部と総合討論への橋渡しをしたい。
第 3 部では、国際比較の視点から、社会組織としての日本の「家」の特性について考察する。具体的には、台湾、韓国、インド、スウェーデンの家族や親族組織あるいは村落組織の構成原理と日本の「家」や村のそれとは、どのように異なるか、共通性と差異を描き出せるような報告を期待している。
なお、タイトルの「共同性」は、「家」の内部の共同性と外部の共同性の両方を指示する
包括的な概念として用いている。後者には、同族や村落組織、講や仲間関係など、「家」を取り巻くさまざまな共同性が含まれる。どのような共同性が論じられるかは、対象とする時代、地域、階層によって重点が異なると考えられる。また、各報告のタイトルには「 」を付した「家」と付さない家が混在している。よく用いられるイエも含め、こうした表記の違いの背景には、各学問分野の習慣や各論者の家概念の違いがあるように思われる。総合討論では、家概念および関連諸概念の交通整理を試み、全体として整合性のとれる理論的定義を探りたい。
前述したように、今回のシンポジウムは、新シリーズの第1 巻として出版されることが予定されている。本学会自体の「少子高齢化」問題と将来への存続可能性を考慮すれば、読者の中核として想定されるのは「家」に関する基本的知識を欠いている若い世代の家族研究者であろう。こうした若手研究者や大学院生に、過去の家族を知ることの重要性を伝えて家族史研究へと誘うことも、今回「家」を主題として取り上げることの意義の一つである。
文責 加藤彰彦(明治大学)
戦国期畿内・近国の百姓と家
坂田 聡(中央大学)
報告の課題
1980年代から90年代前半に大きく進展した日本中世の家や家族をめぐる研究は、90年代後半以降停滞し、今日に至っている(高橋2014)。
中世家研究のこうした閉塞状況を打破するためには、個別実証の水準を上げることだけでは不十分であり、そもそも家とは何かという根本的な問いかけに対する回答を、しっかり持った上で研究を進めることが重要だと思われる。そのためには、かつて学問間の垣根を超えて活発な議論が交されていた農村社会学・家族社会学・社会人類学・法社会学・民俗学等による家研究の成果を踏まえ、自らの家の定義を明示することが、まずもって必要だといえよう。
そこで、本報告では上述の議論を参考にしつつ、報告者なりの家の定義を明確にした上で、畿内・近国地域における百姓の家の成立時期を探ることにしたい。
百姓の家の成立期をめぐる諸説
まずは家に関する古代史・中世史の通説的な見解だが、11世紀後半~12世紀の院政期頃に、貴族・武士・百姓を問わず、家父長制的な家が成立するとみなす。このように理解すると、すべての階層において家が社会の基礎単位に据えられた中世という時代は、文字通り家社会の時代であったということになる。
これに対し近世史においては、17世紀後半以降「小農の自立」が進行し、それにともなって百姓の家が体制的に確立したと考える。つまり、近世史の通説的理解によれば、百姓レベルで家が一般化するのは17世紀後半~18世紀前半あたりだということになる。
見ての通り、古代史・中世史による家の成立期の理解と、近世史による家の成立期の理解とでは、何と600年近い隔たりが存在する。
以上の両説に対し、報告者は百姓の家の成立期を16世紀に求めたい(坂田2011)。報告者の見解は、院政期に形成された家の進歩・発展の過程として戦国期の家を展望するのではなく、逆に近世以降の百姓の家の歴史的な起源を原型遡及的に追跡し、それを戦国期に求めている点で、古代史・中世史の理解よりはむしろ、近世史の理解に近い立場に立つ。だが、この見解は古代史・中世史の側からの批判のみならず、近世史の側からの批判にもさらされている。本来決定的に対立するはずの古代史・中世史の家研究と近世史の家研究は、お互いにまったく無視し合ったまま今日に至っており、各々、両者の中間に位置する報告者の見解をターゲットに据えて批判を展開しているのである。
百姓の家と家産・家名
上述の批判に答えるためには、そもそも家とはどのようなものか、はっきりさせる必要があるが、ここで報告者による百姓の家の定義を述べると、「家産・家業・家名などを代々継承することによって、超世代的な永続を希求する社会組織(公的には村社会における権利・義務の単位、私的には家長の家族を中核とする経営体)」ということになる。これは、家の要件を厳密化することにより、この要件を満たさないものは家とはみなさない(萌芽的な「家」にすぎないと考える)立場である。
その上で、家産や家名の成立期を探ると、家産については中世前期の段階では、武士にせよ百姓にせよ、分割相続と夫婦別財が一般的であり、代々継承されるような家産など存在のしようがなかった。これに対し、中世後期には嫡男単独相続化と夫婦同財化が進行し、家に固有の家産が成立する。分割相続から単独相続への移行の時期は、百姓の場合概ね15~16世紀あたりではないかと思われる。
そして、16世紀末の丹波国山国荘の一史料に「跡式」なる語が登場するが、これこそまさに家産を意味する語だといえる。家産が形成されると、家産を用いて営まれる生業も固定化の傾向を強め、最終的には近世の公的な身分秩序のもとでの家業の成立に至る。
一方、百姓の家名は、①苗字、②襲名の二種類に分けられる。このうち苗字について述べると、一般に近世の百姓は苗字・帯刀が禁止されたと考えられているが、それはあくまでも武士の面前や武士に提出する書類上でのことであり、実際には村内で私的に苗字を名のる百姓もかなりの割合で存在した。さらに、丹波国山国荘では中世後期の諸史料中にも百姓の苗字が多数見受けられ、そのうちのかなりの部分は今日に至るまで継承されている。本報告においては、荘官や名主クラスの上層百姓の苗字が14 世紀後半に、それ以外の百姓の苗字が15~16 世紀に成立したことを指摘する。
また、襲名に関しては、官途名かんとめい(官職の名にもとづく人名)をはじめとする下の名前、すなわち字あざな・仮名けみょうの継続的な使用がいつ頃から始まったかを精査することによって、この慣行が定着する時期を推定できるが、近江国菅浦百姓の人名に関する報告者の研究によると、上層百姓は14 世紀後半に、それ以外の百姓は15 世紀後半~16 世紀前半に、同一の名前を父子間で継承し始めたことがうかがえる(個人名の家名化)。
跡式と百姓株
中世前期には犯罪は穢とみなされており、罪人宅は焼却して、その穢を除去することが一般的だった。しかし、戦国時代になると罪人宅は村によって保全され、子息らにその「跡」を継がせる風習が、しだいに広まってくる。本報告では、罪人「跡」の保全に関する15 世紀末の近江国菅浦の一史料から、その事実を読み解く。
ところで、かつて社会学者の長谷川善計は百姓の家をもって、村社会を構成する株とみなす見解、すなわち「家=百姓株」論を公にした(長谷川他1991)。また、中近世移行期の村社会を研究する稲葉継陽は、戦国期に村請制にもとづく村が形成されたことによって、17 世紀半ば以降、この村の助力で永続性を持った百姓の家の自立が促進されたとみなした(稲葉2009)。上述の長谷川と稲葉の見解をもとに、「小農」の自立が進行した17 世紀後半以降に形成された「百姓株」の歴史的な起源を、16 世紀の「百姓跡式」に求めた上で、村による「百姓株」の設定こそが、百姓の家永続の前提条件になったと結論づけたのが、近年の戸石七生の研究である(戸石2013)。
だが、「百姓株」は家の論理、村の論理、領主支配の論理が複雑に絡み合って生じた一つの現象形態にすぎず、あくまでも農民自身による家の形成が歴史的に先行するとの大藤修の見解(大藤1996)、16 世紀後半に百姓の家が成立したことにより、17 世紀初頭に家格制宮座が一般化したとする薗部寿樹の見解(薗部2002)を踏まえた時、稲葉や戸石らの理解とは逆に、まずは永続性を持った百姓の家が形成され、しかるのちに村がこの家を基礎単位とする組織へと変貌を遂げたと理解した方がよいのではないかと思われる。
結論
以上より、家産・家名に着目すると、畿内・近国の場合、戦国時代を通じて百姓の家が成立し、その結果、村はこの家を権利と義務の基礎単位に据えるべく、家の保全をはかるようになった(百姓の家の株化の進展)―という結論を導き出したい。
<主要参考文献>
・稲葉継陽2009 『日本近世社会形成史論』(校倉書房)
・大藤 修1996 『近世農民の家・村・国家』(吉川弘文館)
・坂田 聡2011 『家と村社会の成立』(高志書院)
・薗部寿樹2002 『日本中世村落内身分の研究』(校倉書房)
・高橋秀樹2014 「「家」研究の現在」(同編『婚姻と教育』竹林舎氏所収)
・戸石七生2013 「百姓株式と村落の共同機能の起源」(『共済総合研究』67 号)
・長谷川善計他1991 『日本社会の基層構造』(法律文化社)
中世・近世の宮座と家
薗部寿樹(山形県立米沢女子短期大学)
本報告の目的は、中世から近世への流れのなかで、宮座(村落内身分集団)との関連から、家のありかたやその変遷を考えることにある。村落内身分とは、村落集団によりおのおの独自に認定・保証され、一義的にはその村落内で通用し、村落財政により支えられた身分体系である。
1.中世前期(11世紀半~13世紀半、地域により14世紀初頭まで)
畿内近国と中国地方の中世前期、荘園・郷単位の臈次成功ろうじじようごう制宮座が成立する。これは田堵(のちに名主みゅうしゅ)であることが条件の古老・住人身分の者たちによる村落内身分集団である。住人身分の者が村の成功(頭役と直物なおしもの)を負担しつつ、臈次階梯を登っていき古老となる宮座である。下司・地頭もその構成員となっている。
この名主の職しきが代々継承されることにより、徐々に「名主家」が成立してくる。
2.中世後期
畿内近国の中世後期(13世紀半~15世紀)、個別村落単位で、乙名おとな・村人身分の臈次成功制宮座が成立する。これは、村落内身分集団の個別村落宮座への再編であり、その要因は農業の集約化・生産性の向上・集村化にある。台頭する小名主や有力作人を新しい村人として宮座に取り込む一方、下司や地頭は宮座から離脱した。官途かんと成・乙名成などの新たな通過儀礼が確立し、官途名などの身分標識が強化され、「村人にてなき者」(小百姓や間人、被差別民ら)に対する差別が厳しくなった。
宮座成員権の親子間での継承により「宮座成員の家」が成立していく。ただし宮座の構成員は家単位ではない。有力な宮座成員家は複数の親族や従属者を宮座に送り込んでいる。
名主座みょうしゅざリングの地域(中国、四国〈伊予国以外〉、九州北部中部、北陸・東山・東海地方の一部)における中世後期(14世紀初頭~17世紀)、荘園・郷単位で、名主頭役身分の者たちによる村落内身分集団である名主座が成立する。小名主や有力作人を新名主として取り込む一方、下司や地頭は宮座から離脱した。
これにより、新たな「名主の家」が再編成立した。ただし名主職所持のみが宮座成員の条件なので、一つの名主家が複数の名を持ち複数人を宮座に送り込む場合もありうる。
3.中近世移行期
畿内近国の中近世移行期(16世紀~17世紀半)、宮座は年寄衆・座衆身分の臈次成功制宮座に変わる。惣有地の没収や公租賦課により村落財政が逼迫し、その対応策として村落による家役の賦課が行われるようになる。その対価として、小百姓が宮座への加入を要求し、新座衆が成立する。生産力の向上や加地子などの在地得分の集積により小百姓も家を形成し、その家に家役を賦課することで、小規模な家も「家」と認知された。これが、16 世紀半ばの、村落における家の一般的な成立である。
家役の賦課を契機として、宮座は家を単位とする家の長子の集団となった。また宮座内部での家格差の設定、いまだ宮座に加入できない水呑百姓層への差別があることから、この時期以降の宮座を家格制宮座と呼ぶ。
名主座リング地域の中近世移行期(17 世紀)においても、村落財政の危機に対応した家役賦課により、形骸化した名が家に固着し、新たな階層を宮座内に取り込みつつ、家を単位とする家格制宮座が成立した。ただし、この地域の村落における家の一般的な成立は、畿内近国よりやや遅れると思われる。
4.近世(17 世紀〈半〉~)
17 世紀(半)以降~ 家格制宮座は村落運営から乖離し、徐々に純然たる祭祀組織へと変貌していく。その過程で、家格制宮座は多様化する。
畿内近国における臈次成功制型の家格制宮座は、年寄衆と若衆が乖離していき、年寄衆だけの(年寄衆)○○人宮座(○○には年寄衆の人数が入る)が成立していく。これは、中近世移行期における年寄衆と若衆(または新座衆)との対立による帰結の一つである。若衆(若者組)から年寄集団(宮座)への昇任には、当初、制限があったと思われる
同じく畿内近国における郷村規模の家格制宮座(臈次成功制型)の一部は、頭役を村・組が勤める村組むらぐみ頭役宮座となっていく。さらに、頭役を勤める村や組の内部でも、宮座が成立していく。
名主座リング地域における家格制宮座(名主座型)の一部は、名が苗みょうに変質していき、同族宮座が成立していく。祭祀役に純化した名主頭役が特定の家の役となり、宮座は(複数の)特定の苗字の家集団となる。さらにその特定の家一族内部でも宮座が成立していく。
同じく名主座リング地域における家格制宮座(名主座型)の一部は、宮座頭役勤仕の単位である「名」が村や組になっていき、村組頭役宮座が成立していく。さらにまた頭役を勤める村や組の内部でも宮座が成立していく。
近世では名主座リングの外側、東国や九州南部でも宮座が成立していく。これは、家の成立ともリンクしている。その詳細については本シンポジウムの他の報告に委ねたい。
なお近代以降は身分制が消滅するので、宮座は身分集団としての意義を失い、純然たる祭祀組織となる。
【主要参考文献】 (本報告と関連する論点)
薗部『日本中世村落内身分の研究』、校倉書房、2002年(臈次成功制宮座)
同『村落内身分と村落神話』、校倉書房、
2005年(臈次成功制宮座補遺、名主座研究序説)
同『日本の村と宮座―歴史的変遷と地域性―』、高志書院、
2010年(図表出典・一部改変)
同「中世・近世村落と宮座」、
萩原龍夫旧蔵資料研究会編『村落・宮座研究の継承と展開』、
岩田書院、2011年(宮座研究の現状と課題)
同『中世村落と名主座の研究―村落内身分の地域分布―』、高志書院、2011年(名主座)
関東における家の成立過程と村
――地縁的・職業的身分共同体と家――
戸石七生(東京大学大学院農学生命科学研究科)
1. 目的と手法
本報告の目的は、「百姓の家」の成立過程を関東地方について明らかにすることである。先行研究では、「経営の安定性」(薗部2003、77頁)、「直系家族であること」(平井2008、18頁)など、論者によって指標が様々であるため、百姓の家の成立過程や成立時期について議論することは容易ではない。したがって、本報告では百姓の家の成立過程については、その開始時期の追求を断念し、終了時期の特定を試みる。家が成立しているか否かの指標は、村内における最下層の家の跡式の保存状態である。もし、村内の全ての家の跡式が保存されているのであれば、経営の安定性や家族形態に関わらず、その村においては全ての階層において家の同一性の保持が保証され、したがって家が成立したといえるだろう。よって、本報告ではこの試みにふさわしいサンプルとして、比較的構造の単純な相模国大住郡横野村(現在の神奈川県秦野市横野村)を選び、史料の分析により成立過程の終了の時期の特定を試みた。
2. 分析結果
横野村は寛文検地帳(1671)では、名請人75人のうち屋敷持が70人(うち9人が1698年に隣村に編入)であり、1738年から1869年にわたって断続的に残る宗門改帳では、百姓身分の住民全てが本百姓であった。他の資料では、文政十二年(1829)に1軒の地刈を記録するのみである。要するに、横野村は近世前期から全ての百姓身分の住民が本百姓からなる格差の少ない村であった。ただし、村役人は事実上特定の家による世襲であった。
宗門改帳をより詳しくみると、跡式(横野村では「明屋敷」)は1738年の宗門改帳では四家の跡式が最後の当主名と共に末尾にまとめて記載されているが、以降の横野村での跡式の保存状態については不明である。横野村で再び跡式が記録されるようになるのは、1839年の宗門改帳からである。そこでは、跡式も含めた百姓の家の数が村全体で63家に固定されている他、跡式の五人組への所属が明らかになっている。
3. 結論と含意
以上の結果から、横野村では、全ての百姓の家の跡式が1839年以降制度的に保存されていたことが、村全体で百姓の家の数が63軒に固定されたことによって明らかになった。よって、百姓の家の成立過程はそれ以前に終了していたと考えられる。また、1738年の史料に四家の跡式が保存されていたことが分かることから、跡式の保存自体は18世紀半ばには慣習化しており、横野村の百姓の家の成立過程については開始をそれ以前に求めるのが妥当である。
しかし先行研究では誰がどのような動機で跡式を保存しているかについては説明がない。まず考えられる理由としては、跡式自体に非常に価値があるため、親族のような権利者が売買目的で保存するという理由が挙げられる。ただし、横野村の18 世紀半ば以降の史料では、跡式に値段がつかない旨が明記されており、1839 年以降の宗門改帳を見る限り、常に所持者のいない数軒の跡式が存在するため、横野村の跡式に値段がついたとは考えにくい。さらに、村掟や五人組帳のような史料では村や五人組に対し、親族の権利は非常に制限されている。そこで、報告者は跡式を保存することが近世における法律上の農業者の「地縁的・職業的身分共同体」としての「村」の構成単位として家を説明する必要があると考える。要するに、平均的な大きさが人口400 人と言われる日本近世の村にとっては、農業インフラ維持や隣村との自然資源をめぐる争いといった村の諸問題を鑑みれば、家の増減やそれに伴う人口変動は大きな不安材料であり、家の軒数を管理する理由があった。また、時代が下るにつれて村だけでなく、個々の五人組と個々の家の関係が明確になったという横野村の史料上の現象も、五人組が事実状の年貢納入組織であり、そして五人組が4~6 軒の家から成り立っていたという事実を考慮すれば、相互扶助の必要上、村より1 軒の家の浮沈についてより強い利害関心を持っており、構成員のいない家である跡式についてもより厳密な管理をする動機があったのではないかと考えられる。先行研究では、零細な百姓の家が五人組内における相互扶助によって経営を維持する村の事例が報告される一方で(渡邊2007、203-208 頁)、村が零細経営の跡式を整理統合したという事例も報告されており(平野2004、459-460 頁)、跡式管理に対する態度は村と五人組で差があったとするのが妥当だと思われる。
もちろん、関東の全ての村の村落構造が横野村のように単純なものではなく、単純な村を事例にしたこのような分析結果の一般性については議論の余地がある。ただし、より構造が複雑で階層差の大きい村では全階層における家の成立が横野村より遅れこそすれ、早まることはないと言えるのではないだろうか。
【参考文献】
薗部寿樹「丹波国山国荘における家格制の形成とその背景」
『山形県立米沢女子短期大学紀要』38、2003
平井晶子『日本の家族とライフコース』ミネルヴァ書房2008
平野哲也『江戸時代村社会の存立構造』御茶の水書房 2004
渡邊忠司『近世社会と百姓成立』思文閣出版2007
近世後期における家の確立
――東北農村と西南海村――
平井晶子(神戸大学)
目的と方法
本報告は、戸口資料を用いた歴史人口学的分析を行い、東北日本ならびに西南海村における家の確立過程の解明をめざす。具体的には、陸奥国安達郡仁井田村(東北農村)に残された「人別改帳」146年分を資料に、家とライフコースの変容を観察し、家が、いつ、どのように一般化したのかを検討する。村に存在するすべての戸・すべての人を記録した「人別改帳」を長期間にわたり利用するという歴史人口学の強みを活かし、定量的に家の実態解明を行う。さらに、西南海村(肥前国彼杵郡野母村)についても『野母村絵踏帳』を資料とした分析を行い、近世後期における西と東の変化を明らかにする。
分析結果と考察
東北農村(仁井田村)の分析結果をまとめたのが表1・表2である。18世紀は世帯の連続性が担保されておらず、世帯は誕生と消滅を繰り返す存在であったが、19世紀の中葉以降、世代をこえた連続性が一般化する。同時に、相続や家産継承パターンも変化し、長男単独相続が確立する。加えて、結婚や移動パターンも均質化する。つまり、仁井田村では19世紀にはいり世帯の特徴が大きく変化し、家らしい家が一般化した。また、同じような傾向は奥羽山脈の反対側(出羽国村山郡山口村)でも部分的に確認できており、東北農村の家は19世紀に確立したとの見通しを得ることができた。
(西南日本の事例については報告にて議論する。)
主要文献
大竹秀男 [1962] 1982『封建社会の農民家族(改訂版)』 創文社.
大藤 修 1996 『近世農民と家・村・国家』 吉川弘文館.
中島満大 2014『西南海村の人口・家族・村落社会:歴史人口学と歴史社会との架橋』
(京都大学 博士論文)
成松佐恵子 1992 『江戸時代の東北農村: 二本松藩仁井田村』 同文館出版.
速水融 2009 『歴史人口学研究』藤原書店.
平井晶子 2008 『日本の家族とライフコース:「家」生成の歴史社会学』ミネルヴァ書房.
明治民法の「家」制度とその後の展開
――2つの「家」モデルと生活共同体――
宇野文重(尚絅大学)
[目的と射程]
本報告は、1898(明治31)年に制定された明治民法における「家」制度の構造を紹介した上で、民法施行後の「家」をめぐる議論を、大正・昭和期の民法改正という立法の次元から、また裁判例と判例法理という司法の視点から、さらに家族法学説というアカデミズムの言説から取り上げて、近代日本における「家」の概念をめぐる歴史的展開を示して、本シンポジウムのテーマである「家」概念の再検討のための素材となることを目指す。
また、本シンポジウムのもう一つのテーマである「共同性」については、次の二点を念頭に置いている。第一に「家産」の共同性である。すなわち、民法上は私有財産とされた「家産」を、人々が「家」の財産として認識し、社会的実態としては家族生活における唯一の経済的基盤としての「共同性」を有していたことである。第二に、「家」の実体としての居住・生計・扶養の「共同性」である。実態を伴った生活単位の「共同性」が、「紙の上の家」と評された戸籍上の「家」とは別個に、法的な次元においても「家」として重視されてきた近代家族法史の流れを示したい。
[分析の対象と検討結果]
第一に、明治民法制定過程における「家」概念の多様性を示した上で、起草委員の富井政章と梅謙次郎の「家」規定構想を提示する。日本を過渡期にあると考えていた二人は、大家族を想定した強大な戸主権を中心とする「家」から、「親権、夫権若クハ夫婦ヲ以テ組立テ居ル家ノ新ナル観念」に移行すると認識していた。そこで梅は、民法上の「家」を、戸主を中心とした「名義上ノ家」と、夫権・父権を核とした「事実上ノ生活」との2つの「家」モデルに切り分けて構成した。他方、富井は、家族員と居住・生計・扶養を共にする「世帯主」を戸主とする規定を構想したが、他の委員の理解を得られず、その「家」構想の実現は、1925(大正14)・1927(昭和2)年の民法改正要綱(以下、大正改正要綱と表記)まで待たねばならなかった。
第二に、民法の規定と社会的実態との乖離に対し、裁判所がその齟齬を埋める法理を展開した点を挙げる。裁判所は、たとえば、戸主の家族に対する権利行使の正当性について、戸主と家族員との間に戸籍上の関係が存することよりも、居住・生計・扶養の共同性の有無をより重要な判断基準としている(戸主権濫用判例法理)。
第三に、大正改正要綱の「家」概念を検討する。本要綱は、「我國固有ノ淳風美俗」に適う復古的な「家」制度を強化する側面と家族員の権利の伸張を図る「進歩的」な側面との両方が併存したとされるが、本報告では、要綱の根本方針として「共同生活即チ所謂世帯」が重視され、「独立ノ生計」を立てる成年家族員が戸主の承諾なく「分家」できる権利を得た点に注目する。この点から、戸籍という紙の上では戸主の支配下にあるはずの家族員が実際には独立生計を営む「事実上の分家」状態であるならば、法律上の「家」は空洞化し、国家は国民を正確に把握し得ないとの問題意識が看取できるからである。
要綱は、現実社会における独立生計の世帯を法律上の「家」と規定することで、「家」の実体化・実質化を図った。つまり、復古的・観念的な「家」規定であれ、個人の権利伸張を図る規定であれ、世帯としての実態/実体のある「家」に適用されることが前提となる。したがって例えば、家督相続の単独相続制の緩和は、法定推定家督相続人以外の家族員の権利伸張として評価できるとともに、分配された財産を基盤として家族員の「分家」を促す潜在的なインセンティブとして作用し、また戸主の家産独占による財産費消のリスクも分配によって回避され、「家」の実質化・実体化を担保することになる。
第四に、1920~1940 年代初頭の家族法学の言説を示す。1920 年代の民法学では、民法施行以来の個人主義に対するアンチテーゼとして、共同体や団体主義を強調する潮流が生まれ、また東京帝大の判例研究会が発足し、社会の中の生ける法と国家規範の乖離を判例によって是正することが提唱された。
「家」概念をめぐっては、民法上の「家」の観念性を批判的に考察した末弘厳太郎の「家団論」と中川善之助の「統体論」が重要である。末弘は、世帯をベースにした共同生活単位を「家団」と名付け、不法行為責任の主体として位置づけた。中川は、家族関係の事実の先行性などを主張するとともに、戸主中心の民法規定から解釈によって単婚小家族モデルを析出し、民法上の「家」を換骨奪胎せしめた。その上で中川は、「婚姻/親子/家族共同態」内部において支配権力である夫権・父権および戸主権の不当な行使を抑制する存在として「統体」――個人を超越して存在する団体――という上位概念を提示した。
明治前期以来、法の次元においても「家」概念は多様かつ複雑であり、「戸籍」という「家」を主軸としながらも、居住・生計・扶養の共同性を重視する発想が常にこれに“並走”した。明治民法は「家」制度を採用したが、西洋法原理に基づく所有権の絶対性や個人主義的要素をその核としていたため、当時の社会的実態との乖離があることは当初から認識されていた。民法施行後の司法・立法・法学説はそれぞれ、その乖離を埋めることを模索し、観念化・空洞化した戸籍=「家」概念との相克から、居住・生計・扶養の単位である「世帯」を核とした「家」概念を析出した。世帯としての「家」概念は法規範と社会的実態との乖離を狭めたが、それゆえに、観念性の高かった制度上の「家」に堅固な実体を注入するという法構想をも導出したのである。
三井の財閥化と別家
多田哲久(小山工業高等専門学校)
1. 背景・目的・方法
近世都市の大商家・三井は、近代に入ると財閥化していく。この財閥化の過程で、近世の家・同族から「家族の生成(家の構成員が親族に限定)」と「企業の生成(家と店の分離)」が起こるとともに、その家族と企業が結合していった(下図参照)。
従来の研究の多くは、近代の家族・企業・家族企業に焦点を当て、それらの特徴や問題点を明らかにしてきた。たとえば、家族に関しては、個々の家成員よりは家全体の優先(家への埋没)、父系の親子の同居(直系家族)、男女の不平等などを指摘してきた。また、企業や家族企業に関しては、企業を家業の延長線上で認識・構成(非近代企業)、主家の超世代的存続を第一に考える経営(番頭経営)、労務管理における終身雇用・年功序列・温情主義(日本的経営)などを指摘してきた。
他方、従来の研究は、近代の変化の過程で家族や企業から排除されていく部分(上図の?部分)が、その後どのようになっていくのかについては、あまり注目してこなかった。そこで、本報告では、近世の三井越後屋が近代に入って財閥化する過程で、財閥家族や企業から排除されることになる別家(非親族奉公人の家で、同族の構成単位)に焦点を当て、その変遷を分析・考察してみたい。史料としては、財団法人三井文庫の史料を使用する。
2. 分析・考察
別家の変遷を見ると、近世の家の在り方、とくに「株としての家」が、近代においても存続していることが明らかになる。たとえば、[追1304-3](三井文庫の史料番号)は明治7年(1874)時点の別家の名簿であるが、別家79軒中5軒が休株となっており、株という表現がそのまま使用されている。[中井7]は明治18年(1885)から明治32年(1899)までの別家に関する文書の控であるが、別家が三井に対して、結婚・養子縁組・養子不縁などの届け出をしていることがわかる。この点は、個別の家の存続に対しては全体の承認が必要(家の非自律性)という株的性格と相通じる。[特867-2]は明治45 年(1912)時点の別家の名簿であるが、そのなかに「絶家」「預リ」として3 人の名前があがっている。この点は、家は人がいなくても存在すること(家の無人性)や、家は譲渡可能な対象物となること(家の譲渡性)など、同じく株的性格を示している。
また、近世以来の本別家関係の存続という点も見出される。たとえば、明治33 年(1900)に設立された別家組織・相続会(京都)の規約[続2393-4-1]を見ると、「第二十九條 三井家又ハ會員中ニ吉事凶變ノアルニ際シ多数ノ助手ヲ要スルトキハ會員ハ會長ノ通知ニ依リ速ニ助手ノ勞を執ルヘシ」とあり、別家側は三井との関係存続を明記している。[特164-7]は東京相続会の設立趣意書・規約であるが、それに関して、明治34年(1901)に三井家同族会事務局から東京相続会へ、次のような文書が送られている。「今般同志相謀リ東京相續會ナルモノ設立ニ付右規約相添ヘ聞置レ度旨御届出之趣キ了承右ハ至極美舉ト存候依テ當局ニ於テモ承リ置候ニ付爾後本會ノ狀况ニ關シテハ時々御報告相成候様希望致候也」。ここに「本會ノ狀况ニ關シテハ時々御報告相成候様希望致候也」とあるように、三井側も、別家の行く末に対し、無関心でなかったことがわかる。
3. 結論
別家の変遷に即して三井文庫の史料を分析・考察してみると、近代においても、近世的な家の在り方(株的性格)や本別家関係が残っていたことが見えてくる。
従来の研究のなかには、この点に関する指摘をしたものが若干ある。ただ、部分的・断片的であり、家の株的性格を追究したり、別家の変遷に即して集中的に史料整理を行なったりしてこなかった。また、「残っていた」ことを積極的に位置づけたりもしてこなかった。
そこで、最後に、この「残っていた」点を強調しておきたい。すなわち、確かに別家は近代になって財閥家族や企業からは排除されていくが、それは別家が三井財閥全体から排除されたことを意味せず、三井財閥全体のなかでみれば別家は「再編」されたと言えるのではないか。
そして、別家の変遷を再編として捉えるとすれば、三井財閥の分析・考察は、財閥家族や企業だけに焦点を当てるのではなく、もう少し広い範囲を見ていく必要が出てくる。三井財閥の特徴や問題点を、支え強めたり、変更し難くしたのは、こうした別家までも含んだ諸関係・諸慣行であったかもしれないからである。
今後、より多くの史料を収集し分析・考察することで、別家の「再編」の当否や特質、別家の三井財閥における機能・影響などについて考えていきたい。
家・宮座・共同性
――近代以降期における家墓の普及と座送り慣行――
市川秀之(滋賀県立大学)
近世後期から近代にかけては、家と村落の関係性が大きく変化する。本報告では近畿地方の事例を中心に、墓制と神社祭祀組織である宮座を中心にこの変化の意味について考察することとしたい。
特定墓地における墓石の悉皆調査の結果から、18世紀に先祖代々之墓などの家墓が誕生し。19世紀になると増加し、明治以後それが普遍化する傾向が読み取れる。庶民の墓石は近世初頭から建立されるが、そこに記される人名は当初一人であり、18世紀初頭から二人の夫婦墓が増え、その後一基の墓石に記される人数は増加していく。その帰結として先祖代々之墓が誕生する。先祖代々之墓は都市部では18世紀前半に誕生し、村落部では18世紀中期、山間部などではさらに遅れてみられるようになる。そして明治以後は、「○○家之墓」「○○家先祖代々之墓」といったいわゆる家墓が村落墓地の過半を占めるようになる。このような動きは村落の中間的な階層を中心に展開し、上層部では先祖代々之墓はほとんどみられない。その要因としては近世後期から近代への家意識の高まりと階層的普及を想定せざるをえない。
宮座についても同様のことが指摘できる。宮座は近畿地方を中心にみられる神社祭祀組織であるが、近世初頭より特定の家格の家のみが加入する株座が多く見られるようになる。宮座はあくまでのその村落内における組織であるが、本来は村を超えた意味を持たない存在である。しかしながら河内・和泉の南部あるいは紀伊の北部では18世紀初頭より、男性の養子にともなって、その男性がもとの村で宮座の家柄に属していたことを保証する座送り証文が発給される慣行がみられるようになる。この慣行は18世紀後半から19世紀前半に盛行するが、これは宮座に属するという家の価値が、村落を越えた意味を持つようになったことを意味している。史料を詳細にみると、この慣行は村落の平準化が進行し、宮座争論の結果、株座が解体し、全ての家が加入するいわゆる村座へと移行する過程と関連していることがわかる。このように近世後期より村落の中層部にも拡大しまた高揚していく家意識は、村落内における階層の変化や平準化によって旧来からの家格が消滅していく中で、あらたに村落を越えた価値をもつ存在として生まれたものであり、近代における家意識強調の前提となるものと考えられる。
参考文献
・市川「先祖代々之墓の成立」2002年 『日本民俗学』230号
(市川『「民俗」の創出』2013年 岩田書院 所収)
・市川「座送り慣行をめぐる近世宮座の動向」1998年 『京都民俗』16号
(市川『広場と村落空間の民俗学』2001年 岩田書院 所収)
下北村落における家の共同性
――オヤグマキ・ユブシオヤ・モライッコを中心として――
林 研三(札幌大学)
本報告では青森県・下北半島の一農村を事例としてとりあげ、高度成長期から2000年頃までの家族・親族慣行の変容過程から家と家連合・ムラの関係を考察する。そして、その考察から、特に「土地・総有」と「家の共同性」のあり方についての試論を提示したい。なお、ここでの「家の共同性」とは家と家の共同性に主眼を置いている。
1. 東通村目名の概況 本報告での事例は青森県下北郡東通村目名での家族・親族慣行である。下北半島は1963年・64年の九学会連合調査の対象地であり、この調査に加わっていた竹内利美らの社会学者の調査報告(『下北の村落社会』未来社1968 以下竹内報告と称する)も残されている。本報告ではこの竹内報告と1996年の私自身の調査報告(『下北半島の法社会学』法律文化社 2013 以下林報告と称する)を比較し、この約30年間の家族・親族慣行の変化を考察する。勿論、竹内報告のすべてをここで検討する余裕はないので、次項で示す6点に絞るが、その前に1996年時点(2006年での若干の補充調査)での目名地区の概況を以下に示しておく。
大字目名(行政区) : 目名本村・高間木・向坂・立山
目名本村居住戸数 : 41戸 高間木居住戸数 : 10戸
向坂居住戸数 : 9戸 立山居住戸数 : 5戸
目名生産森林組合 : 約750町歩の共有林野・38戸から構成
(戦後すぐの枝村であった向野は1975年に別個の行政区として独立)
2.1963年と1996年の比較
ここで最も注目したいのは、ユブシオヤ・ムスコ関係である。竹内報告では衰退化しているとされていたし、九学会連合調査時の東通村蒲野沢についての竹田旦の報告でも同様な記述が見られる。しかし、1996年の調査では目名本村のほとんどの家でユブシオヤ・ムスコ関係がとりむすばれていた。その理由も従来の「しかるべき人物に息子の面倒をみてもらうため」や「親の言えないことを言ってもらう」、「ムスコのナコードを依頼するため」だけでなく、「縁が遠くなったので近くするため」や単なる個人的な理由(「キョウダイになろう」という誘い等)によって取り結ばれている例が少なくない。「縁が遠くなったので」という理由からも推測されるように、この関係は取り結んだ時には個人と個人の関係であったとしても、その後は家と家との関係としてオヤグマキの関係になる(蒲生正男「カマド一体化」)。事例のなかではより直接的に「オヤグマキになるため」という理由もあった。このユブシオヤ・ムスコ関係以外でも、転出したモライッコとの関係もオヤグマキになるという。このようにオヤグマキの構成契機は竹内報告とは異なってきているし、その増殖もみられる。
3.変化の原因
このような変化は何によってもたらされたのか? 本報告ではこの変化を竹内報告後の「目名生産森林組合」の成立、本村での権利戸(組合員)と非権利戸の混住、権利戸の枝村への移転等から考えていきたい。従来は目名本村居住戸と権利戸は一致し、非権利戸である分家は枝村に居住するという「棲み分け」がなされていた。しかし、この30年間での「目名生産森林組合」の成立と「棲み分け」の崩壊によって、目名本村としての「まとまり」の基盤は消失した。
そこで本村居住戸間の「つながり」や「まとまり」を求めるための「戦術」として活用されたのがユブシオヤ・、ムスコ関係や「本源的な家」の減少であった。すなわち、最近の「部落内婚率の低下」や本村内での新たな本分家関係の展開の難しさによって、居住戸間での「つながり」は世代継続性がなく、随時取り結ぶことが可能な関係としてのユブシオヤ・ムスコ関係を活用した。そして、双方の家を家連合としてのオヤグマキに含ませることになるが、この活用過程で他のさまざまな個人的な契機もオヤグマキを構成することにもなった。
4.「家の共同性」と「総有」/「実在的総合人」
上記のように変容過程を整理することが可能だとしても、「なぜ『つながり』や『まとまり』が志向されたのか?」という疑問は残る。「家の共同性」を考える場合は、家、家連合、ムラという各レベルでの共同性を想定していく必要がある。一般的に、この三者は相互に関連しあうなかで存続し、それぞれ何らかの「土地」と関係している。それらは「家産」、「一族の土地」、「ムラの土地」等と呼ばれることが多い。
「ムラの土地」は「オレ達の土地」とも観念されてきたことは、明治26年制定の目名「村方約定書」にも見られることであるが、これについては農業経済学や最近の環境社会学等では「村落(ムラ)産」(川本彰)、「共同体的所有」(守田志郎)、「総有」(鳥越皓之)という言葉が使用されてきた。「総有」の概念は別途考察する必要もあるが、ここでのムラは行政区ではない慣習法上の「生活共同体としてのムラ」(戒能通孝)であり、「単一性Einheit」と「複多性Vielheit」を併せ持つ「実在的総合人Körpershaft」としての性格をも有していたのではないだろうか。本報告ではこの点から、ムラのなかで家が存続するために必要である家連合の存在を指摘し、家と家との「つながり」が求められた理由を考えていく。
婚出女性がつなぐ「家」
――台湾漢民族社会における均分相続と「生家」の役割から――
植野 弘子(東洋大学)
本報告は、漢民族社会の家族―「家 jia」について、日本の「家」とは異なる男子均分相続、母方オジの権威、さらにこれまで注目されることの少なかった婚出女性を視点として考察するものである。資料は、台湾の漢民族、とくに台南地域の例を中心とする。
全ての男子が親に対して同等の権利をもつ男子均分制は、親に対する扶養や死後の祭祀における均分の義務を伴うものであり、また婚出した女性に対する義務も均分に負担することになる。婚出女性の「生家」としての役割は、その兄弟たちが同等に負うものである。
この兄弟たちは、「母方オジ」(<母舅>)として、その姉妹の子供に対して権威をもつ存在である。かつては、姉妹の息子の結婚式において、母方オジは最高の賓客であり、姉妹の息子たちが分家する際には、その財産分割の裁定者となることもあった。こうした「生家」(<後頭厝><外家>[娘家])に対して、婚出女性は、その夫と共に親に「孝」を尽くす存在となり、また自己およびその息子に対する兄弟が負う均分の義務によって、兄弟たちをつなぐ役割を果たすものである。
1.男子均分相続
親の財産に対して、男子が同等の権利を持ちながら、その権利を行使せず、兄弟や父方平行イトコがともに「大家族」を構成することが、伝統的には漢民族のあるべき家族の理念であった。親の生存中にその息子たちが分家しないことは、親に対する「孝」の現れであるとされた。実際には、兄弟たち全てが結婚してから分家が行われるのが、通例であった。これは、婚姻に関わる費用の負担は、親の義務と考えられ、それが果たされてから親の財産が分けられるべきとされるためであり、また分家後の新生活に必要なものを提供してくれる妻の生家の存在があってこそ分家は可能という現実に即したものである。つまり兄弟たちが全員結婚してからの分家が、元の家族の均分の原理においても、また分家後の家族の発展のためにも望ましい形態となる。こうした同じ権利をもつ兄弟たち、さらにその妻同士―「相嫁」(<同姒>[妯娌])の間には、対立的関係が内在することとなる。
親の生存中に、均分相続の原則に従って分与がなされれば、親の扶養、また葬式、死後の祭祀に対しては、兄弟たちは均分に負担する。婚出した姉妹に対する「生家」の義務の遂行においても、兄弟は均分の義務をもつ。その義務は、当初は父親が担っていたが、分家によって兄弟全員が同様に負担すべきものとなり、これを遂行するため、分家した兄弟たちは、協同せざるを得なくなる。
2.婚出女性に対する「生家」の役割と母方オジの権威
婚出女性の出産、子供の満一歳までの諸儀礼において、「生家」から儀礼的な贈与がなされ、婚出女性の夫が分家した際には新生活を支える経済的援助が、また家屋の新築・再築に際しても儀礼的贈与がなされる。こうした儀礼的贈与は、子供、特に男子の出生、家族の繁栄を意味するものであり、婚入女性の「生家」が「婚家」の継続・繁栄を祈願することとなる。また、「母方オジ」は、現在でもその姉妹の息子の結婚式では重要な賓客であるが、かつては最高の賓客として席に着き、さらに姉妹の息子たちの分家に際しては最も権威ある裁定者としての役割を果たすこともあった。そして、婚出女性の死に際して、兄弟あるいは兄弟の息子は、「生家」を代表して彼女の死が異常死でないことを確認し、供物を持って葬式に参列しなれければならない。
こうした「生家」から贈与・援助が慣行として行われることは、結婚した夫婦にとってその後ろ盾としての「生家」の存在を意味しており、結婚し妻を得ることは、男性にとって分家を進めることを下支えすることになる。「家」が展開していくとき、婚入者とその「生家」の存在は、欠くべからざるものとなっている。
3.婚出女性の役割
婚出女性は、その親に対する孝行を、娘婿とともに果たしていく。「娘婿は、半分の息子」と言われるように、婿はことあるごとに岳父母に親に尽くし、その死に際しては、妻が娘として行う儀礼を助け、また自身も岳父母の葬式において出費しなければならない。それは、娘婿たち―「相婿」(<同門>[連襟])が、共同して行うものであり、婚出した姉妹たちは、その夫たちを協力的に「生家」に結びつける役割を果たすのである。
女性は、必ず婚出するものとされており、未婚で死亡することはあるべき姿ではなく、「生家」において、祖先と共に祭られることは忌避される。女性が「生家」に留まることは、父系性の維持への不安定要素であるだけでなく、外に展開する関係性を欠くことに繋がる。未婚の女性は、親に対しては十全の孝行を果たし得ず、また兄弟たちに「母方オジ」としての立場を確保させず、さらに分家した兄弟たちが協同する機会を失わせることになる。女性は、婚出してこそ「生家」と「婚家」をつなぐのみならず、分家した「生家」の兄弟たちをつなぐことになるのである。
4.まとめ-今後の課題
台湾のみならず、中国大陸や香港においても、女性が介在した関係が、とくに社会関係
が広範に展開する際に重視されることは、これまでの研究においても指摘されている。
現在、台湾では、急激な少子化が進んでいる。男子均分相続も「母方オジ」の存在も、変化せざるを得ない。もはや、かつてのように、「父系」や「家」という観念の存続を疑いないものとしてみることはできない。こうしたなかで、結婚した娘が「生家」の親との絆を強くしていることが指摘されて久しい。これまでの父系的視点で理解できない事態が多発するなかで、娘と親が紡いできた関係を見直すことは、今後の家族を考える一つの視座となりえるであろう。
「家チプ」からみた韓国の家族・親族・ムラ
仲川 裕里(専修大学)
本報告の目的
本報告の目的は、日本の「家」に該当する韓国の「家チプ」(以下、チプとする)を通して韓国の家族・親族・ムラの特性を検討し、日本のそれと比較して、その共通点と相違点を明らかにすることである。
文化や政治制度など、さまざまな面で中国の影響下にあった日本と韓国は、家族・親族制度においても中国の影響を受けた。そのため両国の家族・親族制度には共通点もあるが、相違点も多い。チプと日本の「家」の場合も同様で、両者の概念、両者が内包する制度、両者を単位とする親族関係や親族集団、両者とムラの共同性との関係を比較してみると、類似点がある一方で相違点も多々あることがわかる。
本報告では、まず、韓国の伝統的家族構造と親族制度の概略を述べ、それらが日本と比べてはるかに厳格な父系出自原理と世代原理に基づいていることを示す。次に、伝統的なチプの概要ならびに養子・相続・分家・居住といったチプが内包する制度を紹介し、日本の「家」との類似点と相違点について検討する。次に、チプを構成単位とする親族集団であるチバンを取り上げ、個人を構成単位とする親族集団である門中ならびに日本の同族と比較し、その特性を明らかにする。最後に、韓国のムラについて略説し、チプとムラの共同性について検討を試みる。
なお、本報告では主に伝統的なチプを考察の対象とするが、変化の激しい韓国農村社会の状況に鑑み、1990年代半ばに行なった現地調査の事例も適宜紹介する。
チプの概要とチプが内包する諸制度
チプは日本の「家」と同じく、物理的な建物であると同時に、そこで生活する家族を中心に構成される現実の社会集団であり、また、ひとたび創設されれば永久に存続することを理想とする永続的な制度体であるが、「家」と比べるとその永続性は弱い。これは、経済単位であることが重視される「家」に対して、祭祀単位であることが重視されるチプの永続性が、父系出自原理と世代原理に厳格に従って祭祀権を継承することによって保たれるからである。この2つの原理が遵守できない場合、チプは断絶する。「家」の場合と異なり、ひとたび断絶したチプが再興されることはない。
居住は長男残留が規範であるため、居住単位としてのチプは理念的には父系直系家族の形態をとる。財産相続は長男優待不均等相続で、次男以下にも家産の相続権はあるが、祭祀権を継承するのは長男のみである。祭祀権の継承者がいない場合は養取が行なわれるが、父系出自原理と世代原理により、養子は養父の父系親族で、かつ、養父の一代下の世代に属する男性に限定されるため、適切な養子がいなければ、チプは断絶することになる。
理念的には一致すべき居住単位・社会経済単位・祭祀単位としてのチプのずれは伝統的なチプでも起こっていたが、急速な都市化の進行によって、ずれの発現の頻度が高まり、かつ、ずれの様相が多様化している。
次男以下にも相続権があるため、日本と違って、分家は制度的に組み込まれている。また、クンチプ(本家)・チャグンチプ(分家)間に強い序列関係がなく、クンチプ・チャグンチプ関係そのものも2~3世代で消滅するという点も日本の本家・分家関係とは異なる。
チバン
チバンは、チプの長が高祖を共有する関係にあるチプを構成単位とする親族集団であるが、さまざまな生活の局面で互いに扶助し合う集団でもあるため、系譜的距離のみならず地縁性もチバンの重要な構成条件となる。基点となっているのが特定の祖先である点は門中と共通しているが、チバンには門中や日本の同族のような永続性はなく、クンチプ・チャグンチプ関係と同様にいずれは消滅することになる。
チプとムラの共同性
日本と同様に、ムラはチプが集まった、地縁を中心とする集団単位であるが、その規模
やチプ集団の構成は多様である。そのため、ムラを一般化して語ることは難しいが、チプ
を構成単位とする生活共同体であるという点では共通しており、ムラにはチプを単位とす
る社会経済制度がいくつも存在している。しかし、親族の組織化において父系出自原理が強いためムラの境界を越えた親族関係を取り結びやすく、また家屋(屋敷)・屋敷地への執着が希薄なため、ムラの境界を越えた転居もしばしば行なわれており、居住は必ずしもムラの成員の条件にはならない。このような状況の中で、ムラの永続性は、ムラの核となるチプ集団がムラに居住し続けることによって保たれてきた。
まとめと課題
チプの永続性は祭祀権の継承によって保たれるが、チプの永続性=祭祀権の継承であるがゆえに父系出自原理と世代原理という2つの規範の制約を受け、そのためにチプの永続性が相対的に弱まる、という自己矛盾的結果となっている。また、クンチプ・チャグンチプ関係やチバンのようにチプを単位とする親族関係ないし親族集団に永続性はない。同じくチプを単位としていても、ムラの場合は核となるチプ集団が居住し続けることによって永続性は保たれてきたが、ムラの境界を越えた転居が多いためムラの周縁は明確ではない。
1960 年代半ばから急速に進行した都市化の影響で、チプやチプを単位とする集団には構造的な変化が起きているが、それによってチプやチプを単位とする集団の共同性が失われるわけではないという指摘もある。家屋(屋敷)・屋敷地が及ぼす影響力、ならびに居住/地縁性と共同性の関係についての日韓の比較は今後の課題としたい。
近世インドの農村における農民と「家」
――18-19世紀のインド西部・デカン高原に注目して――
小川 道大(東京大学)
本発表の目的
本発表の目的は、前植民地期のインドの農村社会にみられた「ワタン制度」を紹介することである。ワタン制度とは、農村の構成人である農民・職人らの農村での権利と義務を規定した制度で、後述するように、近世日本の株の制度と多くの類似点をもつ。ワタンの研究に関しては、深沢宏『インド社会経済史研究』(東洋経済新報社、1972年)や小谷汪之『インドの中世社会-村・カースト・領主』(岩波書店、1989年)などの日本人研究者による優れた研究があるが、ワタンをめぐる議論はインド史・アジア史の研究枠組みを超えることはなく、日本史とのごく最近まで比較研究はなされてこなかった。そこで本報告は、インドとの比較の中で、近世日本(関東)の農村社会を明らかにしようとする戸石報告(第1部第3報告)と対応させながら、比較研究を意識した「ワタン制度」の紹介を行い、本シンポジウムで議論する「家」・「家社会」の多様性をインド史の文脈から示していく。日本史との対応をより明確にするために、インド史では未だ定着していない近世という概念を用い、これを本報告では16世紀後半から19世紀前半と定める。近世インドにおいて、ワタンに関する史料が特に多く残され、深沢や小谷が研究対象とした、近世後期(18-19世紀)のインド西部・デカン高原を本報告の対象とする。
18-19世紀デカン地方における農民と「家」
インド中西部のデカン高原にある乾燥地帯は、マラーター王国(1674年~1818年)の本拠地であった。マラーター王国の史料では、農村の構成を示す際に「60家族の農民と12種類のバルテー職人」という表現がよく用いられる。バルテー職人には、大工、陶工、鍛冶などの手工業者の他に、占星術師、ヒンドゥー堂守り、ムスリムの導士など村にサービスを提供する者、さらに不可触民として差別された皮革工や村の雑用役が含まれていた。すなわち上記の表現は、近世のデカン地方の農村が、農民のみではなく、種々の手工業者やサービス人によって支えられていたことを示している。そして農民は、クンビーなどの農民カーストからなり、バルテー職人についても、大工カーストや陶工カーストなどが専門的にその職業を行っており、社会的流動性は極めて限定されていた。本研究では、農村の主要産業である農業の担い手である、農民に注目する。
近世の農村において、土地を耕作して、地税を村長に納めることが農民の義務であった。この義務に対して、農民は土地の保有権を得た。近世デカン地方では、この権利と義務の総体は、ワタンと呼ばれた。ワタンは、基本的に世襲されたが、売買も可能なものであった。近世デカンの農村には、ワタン持ち農民と、ワタンを持たない農民が存在した。前者は地税を支払う見返りに、正規の村民として屋敷地を与えられ、村民の種々の権利を受けた。ワタンをもたない農民は、ウパリー農民と呼ばれ、毎年の地税納入義務が生じない代わりに、耕作地や屋敷地の保有権をもたなかった。ただしウパリー農民が、農業から完全に締め出されたわけではなく、荒蕪地を開墾し、地税を支払う限りにおいて、耕作地の占有を認められ、当該村に居住できた。他方で、新たな土地を求めて休耕に合わせて規則的に、または単に不規則に、村々を転々とするウパリー農民も存在した。ウパリー農民は、何らかの事情でワタンを購入、または養子相続した場合に、ワタンもち農民として、正規の村民に加わった。ワタンもち農民が離散したために生じた荒蕪地を耕作したウパリー農民は、共同体の決定に従って、ワタン農民となりえた。このように農民には、ワタンもち農民とウパリー農民が存在し、この関係は、近世日本の本百姓と水呑み百姓の関係に比定しうるものと考える。さらに上述したバルテー職人も、ワタンによって職務と権益が規定されており、ワタン持ち職人とウパリー職人が存在した。ワタンもち職人は、村落共同体に財やサービスを提供する代わりに、農民が地税として尊重に払った穀物の一部を受けたり、免税地を保有したりした。こうした村落のやり取りを管理する村長や、記録係の村書記の職務と権益もワタンによって規定されており、ワタンは村落を運営する上で最も重要な制度であった。報告では、ワタン制度が通用しない農村社会の場面も議論した上で、近世後期のデカン高原の農村社会の諸関係を、ワタンの概念を用いて整理し、図示する。
議論と課題
本報告では、上記のようにワタン制度を解説した上で、農民にとって最も重要な耕作地保有とワタン制度の関係を議論し、必ずしも地味がよくなかった近世後期のデカン農村がどのように運営されたかを考察する。1 次史料として残された土地の家系図(相続関係図)を用いて、合同家族による土地の相続・経営の実態を詳細に検討する。