第6報告 「占領下の人口政策と優生保護法―『質』と『量』の管理」
豊田 真穂(早稲田大学)
ワシントンDCにある人口情報局は、1957年の報告書において、日本では1948年の優生保護法による妊娠人工中絶と断種/不妊手術の合法化が現代史上まれに見る出生率の低下につながったとしている。優生保護法はアメリカ占領下で議員立法で成立しているが、では占領軍は、この優生保護法に対してどのような対応をしたのだろうか。優生保護法の成立に関する研究は多数あるが、占領軍との関連はあまり明確ではない。そこで本章は、占領軍が優生保護法の諸規定に対してどのようなコメントを付していたのかを明らかにする。なかでも特に中絶と「優生手術」(卵管/精管の結紮)に関する2つの規定が制定・改正されていく過程、および、中絶を減らすために避妊(および優生結婚相談所)を重視するようになっていく過程に注目する。これらは人口の質と量を管理するための規定といえる。
まず、優生保護法制定にいたる前提として、戦後の人口過剰問題を占領軍がどのように見ていたのかを検討する。大戦中の米国では過剰人口が戦争の原因であるという議論があったが、占領下では過剰人口が戦争を引き起こす等の議論は検閲時に「削除」処分を受けていた。一方、1946年2月には公衆衛生局(PHW)のサムズ局長が、人口増加への対応策は産児制限しかないが、占領軍はこれに関与しないことを明言した。この方針にしたがって、国民優生法改正に関する帝国議会における議論をみて、1946年11月に「本質的にナチの民族理論と実践の復活に等しい」と深刻に受け止めた占領軍スタッフもいたが、占領軍がこうした動きに直接反対することはなかった。
次に優生保護法制定過程をみていく。1948年の優生保護法案に対しては、民政局(GS)の法務課オプラー課長とPHWのサムズ局長や医業課のジョンソン課長などが中心になって逐条的なコメントが付され、必要に応じて修正の指示が出された。特に、「優生手術」の対象となる疾病に関しては、オプラーが「ナチの断種法でさえ、…医学が遺伝性であると見なした個々の疾患について詳細に明記している」と批判するなど、修正指示が出された結果、対象となる疾病リストの「別表」が新設された。サムズは「別表」の各項目にも「医学的根拠がない」などと批判したが、「本法案は議員が提出したもので、厚生省の案ではない」ことが確認され、追々「日本人の手で」修正されていくことが求められた。一方、中絶が合法化されたことに関して、オプラーは「中絶に関して西洋の基準を当てはめるべきでない」とするなど、人口急増に対する「救済策」ととらえていた。1949年改正において、中絶適用事由として「経済的理由」が追加された際にも占領軍は大きな関心を示さなかった。しかし、中絶可能な病院を増やすために医療法の規制を例外的に緩和しようとする日本政府の動きについては、これを許可すると「中絶工場になる」としてジョンソンが強く反対した。
最後に、避妊の重要性を強調するようになった過程をみていく。1949年頃から、避妊の知識が広めて中絶件数を減らしたいというPHWの方針があらわれるようになる。例えば、1949年1月、サムズは、優生結婚相談所の設置基準を定めた省令規定が、避妊や中絶に関する助言を与えるという目的に合致していないなどと批判し、厚生省役人を呼び出し修正させた。また1949年5月には、「今日、日本人の多くは、子どもの数を減らすために中絶を行っている」ことを認めた上で、日本人に求められた場合には「中絶が引き起こす健康障害を減らすために、避妊の専門的知識を与えることは軍政府の重要な責任のひとつである」とする参謀長による指示書が、サムズの修正によって提出された。
しかしながら1950年には、マーガレット・サンガーの来日が禁止された事件や天然資源局(NRS)顧問のアッカーマンが産児制限を政策化すべきだと主張した事件において、産児制限は占領軍の責任ではないというマッカーサーの公式声明が相次いで発せられた。結局、こうした産児制限に対する占領軍の「慎重な姿勢によって、妊娠・出産の減少の唯一の手段が中絶になってしまった」とPHW顧問として来日経験のある人口学者のノートスタインが分析しているように、占領期には中絶によって出生率が減少したといえる。