高岡裕之「戦時人口政策」

第5報告 「戦時人口政策」

高岡 裕之(関西学院大学)

日中戦争~アジア・太平洋戦争期の日本において、「人口政策確立要綱」が作成され、人口増殖を目ざす「戦時人口政策」が推進されたことはよく知られている。しかし、厚生省を中心に実施された諸政策が、「人口政策確立要綱」に掲げられた出生増加策のごく一部を実現にしたに止まるものであったことも事実である。日本の「戦時人口政策」を理解する上では、このような政策の構想と実際の政策の乖離が、何故に生じたのかという問題が説明される必要がある。さらに考えねばならないのは、戦時下の日本において、「戦時人口政策」をめぐって展開された議論が、いわゆる「人口問題」の枠組みを超えた文脈を有していたことである。それは日中戦争~アジア・太平洋戦争期の日本において、人口政策が国家的課題として浮上した背景をなすものであり、当該期日本社会の歴史的段階および「国策」の動向と深く結びついている。本報告では、これらの問題に光をあてることで、「戦時人口政策」の輪郭を浮き彫りにしてみたい。
まず検討したいのは、厚生省における人口政策の位置づけである。日中戦争開始後の1938年1月に創設された厚生省は、しばしば誤解されているが、①陸軍の要望に基づいた官庁ではなく、②また日中戦争に即応して設立されたものでもなく、③さらにいえばその正規の所管事務に「人口問題」は含まれていなかった。そのような厚生省が、長期戦・総力戦となった日中戦争に対応した組織を目ざす中で浮上したのが人口問題であった。厚生省は、1939年度から人口増殖を基調とする人口政策の作成に乗り出し、同年設立された人口問題研究所がその中心となった。このような人口政策は、1940年に成立した第二次近衛文麿内閣における「基本国策」の一つとして取り上げられ、翌1941年1月、「人口政策確立要綱」として具体化される。同要綱の閣議決定に伴い、厚生省は人口政策を中心とする厚生行政の再編成を目ざし、さらに企画院では内閣直属の「人口政策審議会」の設置準備も進められていた。だがこれらの動きは、1941年7月を境として失速する。報告ではこの間の事情について、1940年から41年の国際情勢との関連で説明してみたい。
第2に検討するのは、「戦時人口政策」の立案に携わった人々が何より重視したのが、「国土計画」であったという問題である。国土計画は、「人口政策確立要綱」においては「資質増強ノ方策」の一つとして挙げられているに過ぎないが、人口政策関係者は国土計画こそが「戦時人口政策」の核心をなすものとみなしていた。「戦時人口政策」において国土計画がこれほど重要視されたのはなぜか。報告ではこの問題を、総力戦体制下で進行していた社会変動との関係で説明を試みたい。
第3は、戦時下の人口問題研究所(1942年11月より厚生省研究所人口民族部)が刊行した「大東亜建設民族人口資料」に示されるように、「戦時人口政策」が「大東亜共栄圏」の「民族政策」と深く関わっていたことである。報告ではこのような「民族政策」について、大東亜建設審議会(1942年)における議論などを元に、その特徴を明らかにしてみたい。