第13報告 「戦後日本の人口政策の変遷」
廣嶋 清志(元島根大学)
戦後日本の人口政策および政府の人口問題の認識を以下の 4 期に分けて,その流れを解説する。
第 1 期 1945-59 年 人口過剰論,人口増加抑制策の形成・展開期:当初,人口増加抑制に対する慎重な態度が保持されていたが,優生保護法案が48年7月に成立し,ようやく政府は「わが国における過剰人口の重圧が,国民生活の急速な回復あるいは向上を妨げている」(第1回『厚生白書』(1956年,p.6)「受胎調節の普及による家族計画の推進が,わが国人口の過剰を緩和する一助となる」(同p.209)と言明し,政策を進めた。
第 2 期 1960-71 年 人づくり政策と出生率低下の懸念の時代: 復興経済の段階が終わり,60年12月国民所得倍増計画が閣議決定され,62年6月人口問題審議会63年8月答申は社会開発の観点から開発のあり方を論じ,地域における多くの諸問題が「人間能力の向上の十分な発揮を妨げるのみならず,人口の資質を低下させ,その再生産能力を荒廃させるおそれがないとはいえない」と指摘し,『厚生白書』(64年版)は「わが国の純再生産率は昭和31年以来ずっと1を割っており,人口の基調は縮小再生産である」とし,同66年版は「すくなくとも静止人口を保ちうるようなところまで出生率の回復が望まし」いとの目標を提示した.人口審は69年8月「近い将来において,生産年齢人口の増加はさらに急速に収縮」するので,「出生力の回復を図り,できる限り速やかに,純再生産率を1に回復させることを目途とし,経済開発と均衡のとれた社会開発が強力に実施されることが強く要望される」とし,所得水準の上昇,「子女の扶養負担の軽減,住宅や生活環境の改善整備など」が「出生回復の緊急不可欠の条件」とされた.こうして71年5月初めて児童手当が法制化された.
第 3 期 1972-76 年 1974 年の世界人口会議を頂点とした新たな人口過剰論,人口増加抑制策の時期:出生率は「おおむね横ばい状態」(『厚生白書』1970年版)から, 74年初めには「全出生数においても第2のベビープーム期といわれるほど近年における出生増加は著しい」(同73年版)と転換し, 72年1月のローマクラプのレポートのように,資源・環境問題とのかかわりで人口が問題とされ,新たな形の人口過剰論がしだいに形成され,人口審は74年4月『日本人口の動向』で「今世紀までに増加率こそ逓減しつつも,なお2,000万余の人口増加が予想される現在,世界人口の動向と各種の課題にかえりみて,少なくとも現在の人口再生産力を上回ることのないような方策を考えるべき」とし,74年9月にはIUDが公認された.日本人口会議は74年7月,静止人口を「さらに一歩をすすめて子供を二人までとする国民的合意を」と呼びかけた.児童手当制度は75年7月財政制度審議会によって「見直しと調整を行うことが必要」とされた.
第 4 期 1977 年から現在―人口高齢化と出生率維持対策の時期:少子化対策の登場の遅れに注意しつつ,1990年代末の中央省庁改革における人口政策の用語登場の経過を通して人口政策の位置を確認する。