自由報告 「初期ソビエト家族政策とコロンタイ:1918 年 1 月における母性保護用の取り組みの検討」
ミルチャ・アントン(大阪市立大学大学院)
1917 年 10 月革命後は帝政期のロシア家族の形態と機能が問題視されるようになった。例えば、帝政ロシアではロシア正教が深くロシア家族の日常生活に 関わっていたことは、ボリシェビキにとって改革すべき課題となった。ただし、 ボリシェビキは家族のあるべき姿をめぐる視点が統一しなかった。そのため、 社会主義の家族をめぐる理想のイメージは固定していなかった。家族をめぐる イメージが一つではなかったにせよ、ボリシェビキの中に 1 つの共通点があった。それは社会主義の国家では女性が有償労働を前提として行わなければなら ないという 1 点であった。
ソ連時代は、初期ソビエト期以降養育をめぐる問題の解決は大いに女性に期待されていた。女性は工場(有償労働)などで働くだけでなく、家庭においても家事と養育(無償労働)を行っていた。有償労働と無償労働との両立困難は、「二重負担」の問題を顕著化した。
一方ではボリシェビキは第一次戦争で減少したロシアの人口を増大させるた めに、女性に子どもを産みやすい社会を構築しはじめる。そのために、1917 年
11―12 月以降母性保護をめぐる法律を発布した。1917 年 12 月 22 日の「病気 保険制についての布告」や 12 月婚姻と離婚の簡略化の布告など法律が挙げられ る。
1918 年 1 月に、フェミニストであるコロンタイの下で母性保護制度の導入のため、複数の法律と取り組みが行われる。なお 1 月以降、働いているソビエト 母親を保護するために、法律だけでなくインフラ整備が試みられた。その取り組みは他のソビエトの期間に受け継がれた。そして初期ソビエト家族政策にお ける女性解放にも影響を与えた。
本研究の目的は,1918 年 1 月のソビエト家族政策における母性保護の政策の 形成とその実施を検証することである。