2024年度春季大会 シンポジウム「系図と継承」報告要旨

【シンポジウムの趣旨】                   高橋基泰・米村千代
 昨今、「家(イエ)」の存在が急速に希薄になっているように感じる。そのためか、社会を見渡してもかえって家系に関心を強める向きと、逆に、もはやまったく関心を示さない向きとに二分されるかもしれない。おそらく同様の見地で今から20年以上前、2002年に歴史学研究会編でシリーズ歴史学の現在8『系図が語る世界史』(青木書店)という本が出ている。そのシリーズの問題意識は、近年における時間の流れはあまりにも速く、既存の価値体系のゆらぎは加速度的に進行し、それに代わる新たな価値体系の模索も先が不透明である、というもので、その実2024年の今でも同じと言える。本研究大会では、そのときの「現在」が22年後どのように展開しているのか。その後の各国・各時代の系図・系譜研究の展開をふまえて、何が変わらずに残り、何がなくなり、何が発展しているのかを執筆者に心を新たに報告してもらう。
 また、昨今の問題関心からすれば、東南アジアを含めた双系的な社会における系図研究についても、研究がどのくらい進んでいるのか探りたい。おそらく人類学の分野からの報告となりそうである。報告者の人数に制限はあるだろうが、できるだけ多角的に系図の現在を浮かび上がらせたい。
 さらには、系図の未来ということで、家系図・家系情報がデジタル化とあいまってどのような方向性をとるのか。例えばケンブリッジ大学人口と社会構造の歴史研究ケンブリッジ・グループの20年来のデジタル・データセットを家系情報という点からどのように活用しうるか。その方法を比較史的に家系図大国日本の事例に転用する試みについても、最近の日本の近世経済史の事例をふまえて議論の場を設けたい。
 モノはほぼすべて揃っている。あとは精神的なものを求める、というので一定の年齢になってふと自分のルーツを家系図をたどるところから始める一般の読者も興味を抱き、本シンポジウムの成果を集成し、手に取り活用できるようなものにしたい。もちろん、アカデミックな水準は保ちながらも、である。

第Ⅰ部 『系図が語る世界史』から 司会 米村千代(千葉大学)
<第1セッション「『系図が語る世界史』をふり返って」>
第1報告:『系図が語る世界史』企画と系図研究 イタリア・ジェノヴァ史研究者としての立場と共に」
亀長洋子(学習院大学)
 報告者は、本シンポジウム企画の契機の一つともなった、歴史学研究会編『系図が語る世界史』(青木書店、2002年)の編集責任者を務めた。本報告では、歴史学研究会の当時の雰囲気も含め、この書籍の誕生秘話などの経緯を話しつつ、目次や報告者が執筆した「まえがき」に言及する。そして、この編集作業を通じて、系図の研究とはどういうものか、という問いについて、報告者が感じた点を説明する。その後、報告者が自身の研究対象であるイタリア・ジェノヴァ史に向き合うなかで、系図とはどういう存在であり、作成時の歴史上の人物たちや研究者たる報告者自身が、系図とどのように関わってきたかについて、現段階で考察していることを論じてみたい。
 研究者が研究において系図と関わる類型として、系図自体を対象とし、作成意図を意識した系譜論を考察するものもあれば、家族等の情報源として系図を利用する場合もあろう。また、狭義の「系図」には一見思えないような史資料の情報を集積して「系図」を作っていく作業に従事する研究者もおられよう。振り返ると、報告者のこれまでの研究や考察では、これらの全てに何らかの接点があったように思う。本報告では、報告者がこれまでに利用したジェノヴァ史に関するいくつかの系図や系図作成の情報源となる史料を提示する。そして、中近世において共和制を維持し続け古い家系も多く残存し、加えて経済史面では公債債権者団体であるサン・ジョルジョ銀行や植民者団体であるマオーナといった、株式会社の起源に数えられるシステムが複数形成され展開したというジェノヴァ史自体の個性や、早期から大量に公証人文書が残存するジェノヴァの史料的個性とも絡めて、系図と前近代史の歴史研究、という主題を一研究者の研究経験から再考することも試みたい。

第2報告:「中国の近世譜―珠江デルタへの普及―」
井上 徹(大阪市立大学(現大阪公立大学)名誉教授)
  本報告では、旧稿「中国の近世譜」(『<シリーズ 歴史学の現在>系図が語る世界史』青木書店、2000年)発表後、現在に至るまでの間に進めた中国近世の譜(族譜)に関する作業を紹介する。対象とする地域は明清時代の広東珠江デルタである。
 第1に、珠江デルタは在来、多民族多文化が混在する多元的な構造を特徴としてきたが、16世紀以降、広州城と仏山鎮の両都市を中心として商業化・都市化が展開し、その状況を背景として科挙官僚制を軸とする漢族の単一的な儒教文化に包摂されるプロセスが進行した。この変化のプロセスを儒教化という。儒教化を物語るのは宗法主義の受容である。広東でも、官界入りした士大夫(地元では郷紳という)の家が先進的な儒教文化の一つとして、殷周時代の宗法を理想とする宗族を形成すべきだという近世士大夫の伝統的な考え方を受け入れ、継承していった。この宗族形成の事業は16世紀前半に始まり、150年前後の時間を経てデルタ地帯に普及した。郷紳を送り出した宗族は宦族(もしくは官族)と称され、弱小の宗族との間に大きな格差が生じた。
 第2に、珠璣巷伝説の効用である。珠江デルタの多くの家系では、宗法主義を受容し、自ら定めた「始祖」以来の祖先の系譜を記録する族譜(大宗譜)を編纂するに際して、漢族の進出にともなう民族対立と非漢族(ヤオ族等)の漢化の状況(儒教化の一局面)を背景として、「始祖」より前の遠い祖先が黄河流域の中原から広東北部の珠璣巷を経てデルタの現住地に移住したという伝承(珠璣巷伝説)を採用することによって非漢族の家系とみされる危険を回避し、かつ漢族の家系たることを証拠立てようとした。また新寧県上川島の某姓の族譜を分析することにより、「猺地」とされる上川島という一島嶼にも科挙官僚制に支えられる儒教化の波が押し寄せるなかで、ヤオ族たることが否定的価値しか持ち得なくなる状況が進行し、宗法主義や珠璣巷伝説を受け入れていったことが窺われる。

第3報告:「近世・近代イギリスの家系図と継承」
髙橋基泰(愛媛大学)
 本報告者が『系図が語る世界史』収録の拙稿で概略した家系譜研究史からみてみると、その後20年ほどの年月を経て、デジタル・データ化という点で言えば個人のアマチュア家族史家の貢献はますます著しい。だが、必ずしも学術的利用となると、現時点でもそれほど進展はされていないのではないか。
 系譜学の分野ではよく知られた教会登録記録および教会検認記録といった文書が、歴史学とくに社会経済史の分野において史料として本格的に採用されるようになるまでには小さからぬ時間差があった。とくに教会検認記録である遺言書は遺産目録・検認会計記録とともに教会裁判所での検認後保存されることになっている文書であるが、それらがまとまって残存することはまれで、現在英国には遺言書が約200万件、遺産目録が100万件、会計記録が3万件あるとされる。この年代的算定を通して報告者が見つけたのは、後の遺言書作成慣行の社会階層下降現象および全国的共時シンクロニシティ現象であった。
 家系図は通常自家の祖先を遡ることを本旨とし、系譜学と社会経済史・歴史学との架橋が積極的になされることはほとんどなかったが、家系図の群として新たに相互に連結させるという研究手法により、同時代人がみていた過去の世界をわれわれに垣間見せる窓の役割を果たし、系譜学と歴史学との結節点をも提供する。
 2024年現在、Web上での家系図クラウドに登録されるデータはGEDCOMファイル形式で、その数約1億名を数えている。これを背景に本報告者は対比研究として、一連の作業を続けている。日本の場合でも、とくに日置昌一編『日本系譜綜覧』(講談社学術文庫:日本の家系と系譜を集大成した書。1936年刊行の復刻・縮刷版)を用い電子化した諸家系譜は、古代から近世期までの総計25,000名余を数える。主たる氏族の数にして180家である。これらのデータはすでに統合立体家系図群(OZ.GEDCOM)にしているので、今後の対比研究に用いることにしたい。

<第2セッション「近代日本およびヨーロッパ」>
第4報告:近代日本における系図と「家」-森岡清美の「家」研究の再読を通して-
米村千代(千葉大学)
 本報告では、『系図が語る世界史』において提示された系図作成の社会背景や理由に関する論点について、近代日本を対象として考察を進める。系図が作成される理由として指摘されている危機意識や、正統性の揺らぎ、自身の系統の卓越性の主張という点は、近代日本の社会変動期における「家」の再編過程においても見いだされるものであり共通性がある。また、同書で指摘されている「家」の擬制的性格や系図の虚構性も、社会変動期における「家」にみいだされる特徴と重なる部分が多い。系図を考える際には、あくまで現実にどのように系譜が連なってきたかという事実に着目する視点と、その虚構性や構築性に着目する視点がありうるだろう。系図を歴史的にたどっていこうとすればするほど、実はその境界は曖昧化してくる。誰が先祖であるのか、誰を系図に含むのかということは、実は自明なことではなく、現実の生活や「家」内外の政治ともかかわりあっていた。本報告では、これらの論点を、森岡清美の「家」と先祖に関する研究を再読することからひもといていく。森岡の「家」の研究においては、家族国家観と先祖意識の関連について取り上げた研究があり、日本における系図の一つの定型的な書式として源平藤橘や天皇を始祖とすることに関する考察がある。森岡は、戦前期の国民道徳に関するテキストを解読しながら、当時を生きた人々の先祖意識との異同を論じている。近代日本の「家」が生活や経営の場であったと同時に、その宗教的性格が政治やイデオロギーとの緊張を孕んでいたとする指摘は、近代日本の家族変動との関連で系図を考える上で示唆に富んでいると思われる。森岡の論点と『系図が語る世界史』の論点を重ねあわせることで、日本近代の「家」研究をより広い視点から問い直すことができるのではないかと考えている。

第5報告:「ドイツにおける家系研究と歴史学」 
平井進(小樽商科大学)
 本報告では、ドイツ語圏における非貴族層の家系研究(Genealogie)の歴史を振り返り、北ドイツを中心に家系研究と歴史学(特に農村社会史)との関係について考察したい。
 ドイツ語圏において、市民や農民といった非貴族層の家系研究は主に19世紀後半在野で始まったとされ、各地に家系研究協会が設立され、20世紀初頭にはそれらの結節点となるべき組織も成立した。それは19世紀末以降いわゆる人種学と結びつきつつ一定の制度化・学問化もみてナチス期の人種政策を支えたが、1945年以降も各地で郷土史研究の一部として生き残り再び在野で興隆するに至った。家系研究の活動は重層的に併存する家系研究協会に組織され、教会諸組織、地方文書館や地域史協会、さらに専門ビジネスによって支えられており、現在インターネットとの結びつきを強めてデジタル化が進行している。
 こうした歩みも反映しつつ、19世紀から現在まで家系研究は、各地方の家譜本(Deutsches Geschlechterbuch)、個々の農村教区の家譜本(Ortssippenbuch, Ortsfamilienbuch)、個別家系の調査報告などの諸資料を数多く生み出してきた。それらは1920-30年代に人種学的関心に基づく農村住民の歴史的・統計的分析の基礎となったほか、1960-90年代に歴史人口学者によって基本史料として用いられたこともあったが、狭義の歴史学的研究では、いくつかの例外を除いてこれまであまり参照・利用されることがなかったように思われる。しかし、少なくとも農村社会史研究にとって、北ドイツ、特に報告者が研究対象とする地域の状況からみて、家系研究とその成果は一定の可能性をもち得ると考えられる。

第6報告:「スウェーデンにおける系図学の現状と農村史研究との接点」
佐藤睦朗 (神奈川大学)
 現在のスウェーデンでは、「親族調査」(släktforskning)という名称で、主にアマチュアの家族史家の間で系図学調査・研究が盛んである。この系図学の中心的な史料となっているのが、教区簿冊の一つで、18世紀半ば以降はほぼ全国的に残されている「家庭内諮問記録簿」(Husförhörslängder)である。これは、教区民の教化を目的とした宗教上の知識や識字力に関する諮問の記録であるが、教区民の世帯構成や家長との関係、あるいは世帯(家族)構成員の出生・結婚・移動・死亡などの個人情報も記載されており、過去の家族・親族関係を知るうえでの重要な情報源となっている。こうした「家庭内諮問記録簿」をはじめとする教区簿冊は、現在では国立史料館のHPからアクセスして調査することが可能となっており系図学への敷居を下げることに寄与している。
 一方、18~19世紀のスウェーデンにおいて、貴族や聖職者の一部が系図・系譜を作成したものの、農民層によって系図が作成されたという史実は確認されていない。このため、農村史研究において同時代に作成された系図を史料として利用することはできず、したがって系図学的な手法を用いた分析を行うためには、研究者自身が上述の教区簿冊やその他の公文書に基づいてある特定の農家の家系図を作成する必要がある。こうした手法の農村史研究は、20世紀末から本格的に行われるようになっており、一定の成果を上げている。
 本報告では、このような史料状況や研究動向をふまえて、報告者が調査対象としている東中部スウェーデンにあるフェーダ(Skeda)教区における一農家の系図を史料に基づいて作成したうえで、そこから読み取ることができる19世紀スウェーデン農民家族の様々な戦略について検討することで、系図学と農村史研究との接点について考察することにしたい。

6月23日(日)
第Ⅱ部 『系図が語る世界史』を超えて 
司会 高橋基泰(愛媛大学)
<第1セッション「東南アジア」>
第7報告:「インドネシアにおける預言者一族の現状」
新井和広(慶應義塾大学)
 イスラームの預言者ムハンマドの子孫はさまざまな地域に居住しているが、世界最大のムスリム人口を持つインドネシアも例外ではない。当地における預言者一族は、ほとんどが18世紀から20世紀半ばにかけて南アラビアのハドラマウト地方(現イエメン共和国)からやってきた人々の子孫である。彼らは血統に関する情報をジャカルタの「アラウィー連盟」という組織で集中管理し、現在まで情報が更新され続けている。しかし詳細な系図は公開されておらず、部外者が彼らの血統を知る手段はポスター・小冊子の形で販売されている簡略版の系図だけである。興味深いことに、公開されている系図には15-16世紀に活躍したインドネシアの聖者も含まれているが、非公開の詳細な系図にはそういった宗教者は記録されていない。このように、インドネシアの預言者一族は内向けと外向けそれぞれの系図を作成することで、一族の結束と外部への権威の主張を両立させている。
 預言者一族はインドネシアにおいてさまざまな分野で活動しているが、特に目立っているのは宗教活動である。これは預言者生誕祭などの集会やイスラーム勉強会の開催、各種慈善事業を含むが、これらの活動により一般信徒の中に多くの追随者を得ている。同時に外部の人々に対して尊大な態度を取る預言者一族がいること、イベント中心ともとれる活動が目立っていることなどから批判者も少なくない。近年、預言者一族に対する批判は彼らの血統の信憑性を否定する議論が出てきたため新たな局面を迎えた。議論そのものは歴史学と系譜学の方法論の対立という様相を呈しているため噛み合うことはない。しかし預言者一族を支持する者とそうでない者双方がYoutubeをはじめとするソーシャルメディア上で自らの立場を主張しているため、結果として系譜に関する一般信徒向けの情報が増加するという状況になっている。

第8報告:「バリ・ヒンドゥー村落の家族・親族の継承」
永野由紀子(専修大学)
 本報告では、インドネシア・バリ島を事例に、〈今・現在〉のバリ・ヒンドゥー村落の家族・親族を継承の観点から分析する。文字や図として記録された系図・系譜ではなく、農村住民をインフォーマントとするヒアリングにもとづく庶民の生活実態としての継承・相続を扱う。バリ・ヒンドゥーの相続慣行は、男子均分相続である。男子であれば、長男も次三男も区別なしに農地・屋敷地・家屋を平等に相続する。老親の扶養は、兄弟が年序を問わずに平等に担う。結婚は、夫方居住の嫁入り婚が多い。この意味では、バリ・ヒンドゥーの社会は父系的傾向が強い。ただし、地域差が大きく、バリ州タバナン県では、息子がいない場合は娘に婿をもらい、娘夫婦が継承する慣行が流布している。屋敷地とその周辺には、親夫婦や伯(叔)父夫婦、兄弟夫婦や従兄弟夫婦を中心に複合大家族が共住する。この点は、水野浩一の研究で知られる東北タイの屋敷地共住集団(結合)との類似性を指摘できよう。バリの屋敷地の独自性は、祖霊神を祀る屋敷寺院の存在である。屋敷地共住者および出身者は、出自の屋敷寺院を共有し、儀礼を行う。
 本報告では、バリ・ヒンドゥー村落の親族集団として、屋敷地だけでなくダディアにも着目する。ダディアは、バリ・ヒンドゥーのカスタ(階層)および称号集団と関わる。バリ・ヒンドゥーのカスタは、上位階層(トリワンサ)と平民層(スードラ)に大別され、9割は平民である。平民も称号を持ち、称号集団の範囲は、バリ島全土に広がる。これに対してダディアは、村落(バンジャール)内の集団であり、同一の屋敷地から分出した複数の屋敷地から構成される。村落の多様性は、ダディアの数や規模によって大きく影響される。バリ州タバナン県プヌブル郡の2つの村落(バンジャール)を事例に、バリ・ヒンドゥーの現代村落の家族・親族・近隣集団の特徴を明らかにすることが、本報告のねらいである。

第9報告:「タイ・クーイ人の家系
佐藤康行(新潟大学人文社会科学系フェロー/名誉教授)
 従来、タイ社会は双系制であると理解されてきた。しかし、双系とは異なる報告も数多く指摘されてきた。たとえば、本報告が取り上げるトラクーンの存在については、北原淳が中央タイ研究において既に明らかにしている。そこで明らかにされたトラクーンの特性は、村の開拓者などに由来する地域の有力者であること、父系で継承される同姓集団であること、系図の記録をもっていないため老人の伝承でしか確認できないこと、同姓不婚規則があること等である。
 本報告は、スリン県のある村において、タイ王朝から19世紀末にクンシット(役職名であるが、呼称として使われている)に任命された先祖の記念碑建設および祭典をめぐる出来事を取り上げ、そこから浮かび上がるトラクーン(一族)ないし家系(サーイ)について考察する。クーイ人は、18世紀に現在のラオス南部から移住してきて東北タイ南部に居住している。移住してきた6人のリーダーの名前が伝承として伝えられ石像が建立されている。
 タイの姓名法は1913年に施行されて以降、クンシットの子世代と孫世代が姓をつけた。クンシットの9人の子どもは9つの家系(サーイ)に分かれ、その家系の家族構成員全員の氏名と現住所が表記されている。クンシット夫婦を先祖にし、その子ども9人を始祖とする家系ごとに現在の来孫まで男女を問わず全員が記されている。
 本事例の研究を通して明らかになった結論は、次の通りである。トラクーンは9つの家系の全体もしくは家系と同義の意味で用いられている。家系は男女すべての子供の家族およびその子孫を含んでいる。子孫が家系の家族構成員を書き記してきた。トラクーンの機能は、村の開拓者であり村長などを務めた先祖を記念することで、子孫である自分たちの血統を誇ることにある。記念碑建立は、クーイ人のリーダーの記念碑建立を真似たものであろう。家系内におけるイトコ婚の不婚については厳格な規律がなく制裁もない。以上のように、タイ・クーイ人のトラクーンは北原の中央タイ農村の調査結果とは多少とも相違していた。

<第2セッション「近世日本(旧上田藩上塩尻村)」>
第10報告:「近世日本の百姓的世界における家系図作成の意味 旧上田藩上塩尻村佐藤家系図を手がかりに」 
 長谷部弘(東北大学名誉教授・宮城学院女子大学)
 本報告では、旧上田藩上塩尻村(現在の長野県上田市字上塩尻の集落)の佐藤八郎右衛門家に残された「諸家代次」帳という家系図の内容とその歴史的性格を検討し、村内在住の「百姓」身分の庶民が家系図を作成する論理を明らかにしてみる。取り上げる資料は、「八郎右衛門家文書」の中に豪華製本として残された全4冊の系図書きであり、幕末弘化年間(1840年代)に作成されたものとされている。第一分冊は、村内最有力マケ(同族)内の第一分家佐藤八郎右衛門家を軸に、佐藤一族の家々に関する系譜情報が記載され、二冊目以降は、「村之部」と記載され、村内主要マケのみならず、末端に至るまでほとんどの家々の系譜を網羅している。
 分析の背景には、長野県千曲川流域をフィールドとする村落社会内部の共同性に関する調査研究がある。そこでは18世紀半ばから日本列島各地で一斉に拡大し始めた市場活動=市場経済化を受け、当該村落が東日本における蚕種生産のメッカとなり、結果として、家業、家産、家名、家格を持つ村落在住の「百姓」身分の家々が同族的結合を見せながら経済活動と成長の主体として富裕化上昇化してくるという社会現象が生じた。家系図作成の担い手たちが彼ら主要家集団であった。
 佐藤家「諸家代次」帳掲載の家々はその始原が戦国末期16世紀以前には遡らない。ここから、作成目的が幕末期における武士的社会秩序と百姓的村落社会秩序の変化を受けているという特徴が浮かび上がってくる。さらに、弘化年間に家系譜が作成された際に用いられた「文禄ヨリノ代次名前帳」と題した書写文書が佐藤マケの家々に複数残されている。「諸家代次」帳に使用した元資料はほとんどが村落内の「庄屋文書」ないし「役場文書」と呼ばれる土地所持と人別改め、その他村落行政に関連する文書類である。同時に、この書写文書には、様々な非行政文書情報が朱書きで記録されており、現存していない文書資料や幕末期の伝承情報などが書き込まれたと考えられる。 
 6月には、庶民の家系譜・家系図が作成される目的やその方法に関しての文献的検討を行い、その上で上塩尻村の『諸家代次』帳の資料的価値と性格について、特に佐藤マケの家々の動向と関わらせながら再度検討した結果を報告する。

第11報告:「家系の継承と家業の継承」
山内太(京都産業大学)
 近世村落社会においては、百姓身分の人々が家系、家系図に関心を持つようになり、自ら作成するようになっていた。事例地として上げる上塩尻村においても、いくつかの同族において家系図が作成されている。しかしながら本報告でとりあげる原一族は、少なくとも本家において、近世後期に自ら作成した家系図を確認することは今のところ出来ていない。原一族は、村役人を勤める人物を輩出する等、村内の有力な一族であり、しかも彼らは、その先祖が武士であったと言い伝え、実際に各世代において実名を保持し続けていた一族であったが・・・。
 そこで本報告にあたっては、まず報告者自身が、他の一族が作成した家系図や庄屋文書等を参考に、原一族の本家与左衛門家と、幕末まで本家と強い血縁的繋がりを保った諸分家の家系図を作成した。そこから見えてくることは、特に18世紀後半以降の市場経済化の中での家系継承の困難さである。そこでは後継者に恵まれるかどうかという人的側面のみならず、家経営を維持していくための経済的・社会的側面からの困難さも見て取れた。
 それゆえ本報告では、本家与左衛門家とその周辺の分家が営んでいた家業経営に着目し、人による継承と家業経営・家業継承とがどのように結びつき、家系の継承を可能としていたのか、を明らかにする。その際、得てして家系図を見ていると陥りがちな、各家々の独立・「自立」という見え方を脇に置き、家を超えた、家系継承のための人のやり取りや家業経営のための人々の繋がり、家集団の繋がり等に注意を払いながら検討を進める。
 いったん家系図から離れて家系継承を確認することで、周辺の家々をも巻き込んだ家継承戦略、家継承をめぐる動きが明らかになると共に、それを踏まえて再度家系図に目を向けると、そこからクローズアップされてくるものは、意外なことに、家ではなく、家々を渡り歩き、繋げる「個」ということになるのかもしれない。

第12報告:「旧上田藩上塩尻村馬場家譜について」
岩間剛城(近畿大学)
 信濃国小県郡上塩尻村は、近世日本において有数の蚕種生産地であり、蚕種商人としての取引活動を行う者が多数いた事で知られている(『近世日本における市場経済化と共同性』長谷部・高橋・山内編(2022))。上塩尻村においては、佐藤家が最有力の同族であった。そして山崎家・原家・清水家・馬場家などが、佐藤家に次ぐ有力な同族として、上塩尻村では位置付けられていた。馬場家の同族の中には、上塩尻村内の集落の一つである本宿の開発(正徳年間、1710年代以降)に関わる者がいた。上塩尻村内の集落の一つである大村にあった道のうち、馬場家の同族がまとまって家屋敷を構えていた近くにあった道は、「馬場小路」と称されていた。馬場家の同族の中には、蚕種商人としての取引活動を行う者がいたが、金貸をしていた者も見られた。このように馬場家は、上塩尻村内で最有力の同族であった佐藤家には及ばなかったものの、上塩尻村内において、ある程度の存在感を示す同族の一つであった。
 佐藤家では、上塩尻村における主要な同族の系譜を記載した「諸家代次」が、佐藤八郎右衛門家において幕末期に作成された。他方で馬場家でも、佐藤家「諸家代次」のように詳細な情報が記載された系図ではなかったものの、馬場弥平次家が私的な覚書として「中興系図」を幕末維新期に作成していた。
 本報告では、馬場家「中興系図」の内容についての検討を通じて、馬場弥平次家が家系図「中興系図」を記録するのに当たって留意していた点について考察する。また馬場家「中興系図」と、佐藤家「諸家代次」に含まれていた馬場家分の記載内容についての対比も試みる。佐藤家「諸家代次」の記載内容に、馬場家からの情報が反映されていたのかどうかについても、合わせて探っていきたい。

【シンポジウム報告者】
亀長洋子(学習院大学・イタリア・ジェノヴァ史)
井上徹(大阪市立大学(現大阪公立大学)名誉教授、中国明清史)
髙橋基泰(愛媛大学、西洋経済史・対比経済史)
米村千代(千葉大学 家族社会学)
平井進(小樽商科大学、ドイツ農村社会史)
佐藤睦朗(神奈川大学、北欧経済史)
新井和広(慶應義塾大学、地域研究・歴史(インド洋におけるアラブ移民の歴史))
永野由紀子(専修大学、社会学)
佐藤康行(新潟大学人文社会科学系フェロー/名誉教授、タイと日本の家族と村落の研究)
長谷部弘(東北大学名誉教授・宮城学院女子大学、日本経済史)
山内太(京都産業大学、日本経済史)
岩間剛城(近畿大学、日本経済史)

【討論者(コメンテーター)】
 小池誠(桃山学院大学、人類学)
村山聡(香川大学名誉教授、経済史・環境史)
藤井勝(神戸大学名誉教授、社会学)
森本一彦(高野山大学、歴史社会学・民俗学)

【司会】
 米村千代(千葉大学)
 高橋基泰(愛媛大学)