2025年度春季研究大会プログラム
6月28日(土)
10:00~ 開会挨拶
シンポジウム 「家族と暴力」
13:30~13:35 シンポジウム趣旨説明 李璟媛(岡山大学)・税所真也(東京大学)
第1部 時代が可視化した暴力 司会 税所真也(東京大学)
13:35~14:00 上野加代子(徳島大学名誉教授)
「児童虐待―時代が可視化した暴力」
14:00~14:25 李璟媛(岡山大学)
「韓国における子どもの訓育と虐待―『当たり前』から『禁止』へ」
14:25:14:50 磯部香(高知大学)
「現代中国社会における教育をめぐる虐待性―『愛情』と『期待』の狭間で―」
14:50~15:15 山下亜紀子(九州大学)
「発達障害児の暴力的言動と母親たちによるケア」
15:15~15:25 休憩
15:25~15:40 第1部 コメンテーター 土屋敦(関西大学)
15:40~15:50 質疑応答
6月29日(日)
シンポジウム 「家族と暴力」
第2部 文化・慣習の名の下の暴力 司会 李璟媛(岡山大学)
09:30~09:55 近藤有希子(愛媛大学)
「ルワンダのジェンダー変革を生きる女性たちと地域社会:その暴力的側面と葛藤」09:55~10:20 佐々木祐(神戸大学)
「メキシコにおける中米移民と『暴力』」
10:20~10:45 田中美彩都(東洋大学)
「韓国朝鮮の父系継承と『暴力』:17〜20世紀の養子制度をめぐる史的考察」
10:45~11:10 村上一博(明治大学)
「明治前期のDV離婚裁判」
11:10~11:20 休憩
11:20~11:35 第2部 コメンテーター 小池誠(桃山学院大学)
11:35~11:45 質疑応答
昼食休憩 11:45~13:00
第3部 暴力が生まれる空間、暴力を防ぐ空間 司会 李璟媛(岡山大学)
13:00~13:25 天田城介(中央大学)
「自己暴力の理解社会学―『ごみ屋敷』で暮らす高齢者のライフストーリー」
13:25~13:50 税所真也(東京大学)
「生活に関する事務的行為の社会化」
13:50:14:15 森明子(国立民族博物館名誉教授)
「多様な家族を包摂する集合住宅のケア:ベルリンの事例」
14:15~14:40 祐成保志(東京大学)
「空間を使いこなし、暴力を飼いならす」
14:40~14:50 休憩
14:50~15:05 第3部 コメンテーター 山田昌弘(中央大学)
15:05~15:15 質疑応答
15:15~15:30 休憩
15:30~16:40 総合討論
16:40~16:50 閉会挨拶
2025年度春季研究大会 シンポジウム 「家族と暴力」報告要旨
【シンポジウム要旨】
李璟媛(岡山大学)・税所真也(東京大学)
今日において「家族と暴力」というテーマについて議論する際、多くの場合、夫婦間、親子間などの家族構成員間に発生する暴力を連想することが多い。家族と家族構成員の関係、例えば、夫と妻、親と子ども、成人子と老親の関係は、いずれも、支え/支えられる、認め/認められる、保護し/保護される、扶養し/扶養される、信頼し/信頼されることから始まる関係であり、さらに理想的には、共生の関係、対等な関係であるべきである。
一方で、歴史をたどると、家族間関係は、もともと非対称的な権力関係で、支配し/支配される従属関係としてあり続けてきた。家族構成員における互いの関係が崩れ、強制や虐待などを含む暴力的な関係になることはしばしばある。家族間における暴力は、今も形を変えて絶えず繰り返されている。
本企画の目的は、それぞれの事象において、「暴力」がどのように捉えられ、変容してきているか(第1部)、現代的な「暴力」の特徴をどのように捉えることができるか(第2部)、「暴力」をどのように捉え、家族や空間、地域社会でどのように防いでいくことができるか(第3部)を、比較家族史的観点から立ち上げていくことにある。
シンポジウムは以下のように構成する。
第1部 「時代が可視化した暴力」
第2部 「文化・慣習の名の下の暴力」
第3部 「暴力が生まれる空間・暴力を防ぐ空間」
第1部「時代が可視化した暴力」では、日本、韓国、中国の東アジアを対象とし、主に子どもをキーワードにしつけと称する虐待、教育をめぐる親からの虐待、児童虐待、発達障害児の暴力的言動のケアに焦点をあて、「暴力」の捉え方の変容とともに可視化された家族内で発生する暴力について取り上げる。
第2部「文化・慣習の名の下の暴力」では、慣習という名の下で自明視されていた、または正当化されていた結婚、夫婦、親と子、家父長とその他の構成員などをめぐる諸事相を暴力という切り口で議論する。ここでは、歴史学、文化人類学、法制史学、比較家族史学的にアプローチが中心となる。
第3部「暴力が生まれる空間・暴力を防ぐ空間」では、「暴力」が生まれる場、生み出される場を空間・地域というフィールドとして捉え、環境的・構造的要因から解き明かすことを試みる。ここでは、家族内での暴力が隠蔽されるのを防ぎつつ、地域で家族内の暴力をいかに防いでいくかという観点から議論し、共生、保護、管理、または監視される空間における暴力の発生と暴力を防ぐ、新しいあり方について考えてみたい。
【報告要旨】
第1部 「時代が可視化した暴力」 司会 税所真也(東京大学)
第1報告 「児童虐待―時代が可視化した暴力」
上野加代子(徳島大学名誉教授)
日本社会で児童虐待とはどういう状態を示し、どのように認識できると考えられてきたのだろうか。本報告では、この問いを歴史の時間軸からみていこうと思う。ただ、歴史の記述には選択がつきものであり、ここでの記述は、児童虐待の歴史を通観するということではなく、別の要請に沿っている。それは、虐待を受けている子どもや虐待を行う養育者の存在というものが、どういう人たちによって、どのようにして見えてきたのか、というより大きな関心枠組に照らし、虐待を発見していくその方法の違いがみえるステージに焦点を当てるということである。
具体的には、日本で児童虐待の発見についての議論が台頭した三つの時期を取りだす。①20世紀はじめ、社会事業家が虐待防止事業を行い、児童虐待防止法が帝国議会で制定された時期、②1970年代、小児科学が、Battered Child Syndromeの概念を日本に導入した時期、そして③1990年代以降から今日にかけて児童虐待問題が全国民の問題として制度化された時期である。これらの時期は、①肉眼で発見できると考えられた時期、②レントゲンや医学検査をしなければ発見できないとされた時期、③そして①②にくわえて虐待のリスクアセスメントなしには危険な家族が十全に突き止められないと考えられるようになった時期である。本報告ではそれらの発見方法が、児童虐待問題「先進国」のアメリカの後追いであることを説明する。
ところで、児童相談所が対応した児童虐待の相談件数は、2024年度が22万5509件で、統計をとりはじめた1990年度から一度も減少することはなく200倍以上に増えている。これは年々、親が凶暴になったとか、子育てに無関心になったという家族側の変化であるよりは、社会の側の変化―虐待の定義の拡大や早期発見システムの精緻化、そして子育て家族の「虐待リスク」を探そうという眼差しの浸透―であろう。本報告では、住民に児童虐待の通告を促し、児童相談所をはじめ専門機関が家族の虐待リスクをアセスメントし、カウンセリング等で養育者の態度変容を促すというアメリカ型の対策を続けてきたことを批判的に問う。
第2報告 「韓国における子どもの訓育と虐待―『当たり前』から『禁止』へ
李璟媛(岡山大学)
本報告では、韓国において、子どもを訓育(フニュク・しつけ)する際「当たり前で、必要な、望ましく、許されていた」もろもろの行為が、「当たり前」ではない、「禁止」される虐待行為として認識されるようになる今日までの過程に焦点をあて、その背景を児童の権利、児童の人権意識の向上、法制度の制定及び改正などを中心に考察するとともに、小学生を持つ親を対象とする質的調査に基づいて、訓育と虐待のはざまで悩み、対処に向かう親の葛藤について分析する。本研究は岡山大学大学院教育学研究科「研究倫理委員会」の承認を得て実施した。
韓国で児童に対する禁止行為が明文化されたのは1961年に制定された「児童福利法」である。同法は、1981年に「児童福祉法」に名称及び内容を改正し、続く累次の改正を経て今日に至っている。2014年には、児童虐待犯罪の処罰、被害児童の保護などを規定し、児童を保護することを目的とした「児童虐待犯罪の処罰等に関する特例法」が制定された。同法制定に先立って1991年には、国連で採択された「児童の権利に関する条約」を批准し、1997年には「小・中等教育法」、翌年には同法「施行令」を制定、続いて「懲戒権」の条文削除を決定した2021年の民法改正を経ながら、児童に対する体罰行為が完全に禁止されるようになった。2025年現在は、教育の場における訓育のための体罰、子どもの保護者による訓育のための懲戒行為が禁止され、体罰等の行為を行う子どもの保護者は、児童虐待の罪に処される。しかし、いまだに「訓育と称した虐待」は後を絶たず、多くの子どもが保護者の虐待によって傷を負い、決して少なくない子どもが命を奪われている。
本報告では、以上を踏まえ、子どもを訓育する際許容されていた諸行為が、虐待行為として禁止されるようになる今日までの過程に焦点をあて、韓国における子どもの訓育と虐待について分析する。
付記:本研究は基盤研究(C)「しつけと称する虐待の生成メカニズム―『世代間継承』に注目した東アジア比較研究」(代表:李璟媛、23K01986)の成果の一部である。
第3報告 「現代中国社会における教育をめぐる虐待性―『愛情』と『期待』の狭間で―」
磯部香(高知大学)
現在、中国における大学入試(通称「高考:gaō kaǒ」)は熾烈を極めている。「高考」に臨む若者たちは、2024年には受験者数が過去最多の1342万人に到達している。中国の子どもたちは小さい頃から大学入試を見据えた教育を受け、家族が一丸となり受験戦争に臨むケースが少なくない。一部ではあるが家族の中には、子どもへの期待のあまり、白熱し行き過ぎた言動を子どもにぶつけてしまう親もいると言われている。親からの愛情の名のもとの過剰な期待によって、競争を「内卷:nèi juǎn、不毛な争い」と称し、中には「躺平:tǎng píng(すべてを放棄し寝っ転がる)」することを願望として持つ中国の若者たちがここ近年SNSをにぎわせているのも中国社会の受験の過酷さを表す証左であろう。
そこで本研究では、日本に留学している中国からの留学生を対象とし、加熱する受験戦争に親子共に立ち向かう際の言動の中に包含されている、教育の中の「虐待性」についてインタビュー調査によって解明する。調査方法は、スノーボーリングサンプリング方法にて中国からの留学生に調査協力を仰ぎ、オンラインも含め男女各々5名に行った。科研の規定の調査票に基づきながら、受験経験、親子関係、勉強に関する親の言動等について1時間から1時間半程度のインタビュー調査によって明徴した。本研究は岡山大学大学院教育学研究科「研究倫理委員会」の承認を得ている。
「高考」そして大学進学は、「愛情」の名のもとの家族からの強い要望・サポートを多大に受けており、それもあり子どもは日々の勉強に疲弊しながらも親への「期待」に応えたいという思いが強く見受けられる。時には教育と称した親からの行き過ぎた子どもへの言動が垣間見られることが明らかとなった。
付記:本研究は基盤研究(C)「しつけと称する虐待の生成メカニズム―「世代間継承」に注目した東アジア比較研究」(代表:李璟媛、23K01986)の成果の一部である。
第4報告 「発達障害児の暴力的言動と母親たちによるケア」
山下亜紀子(九州大学)
本報告では、発達障害児の母親ケアラーが子どもの暴力的言動に、いかに対応しているかについて検討するものである。
報告者は、発達障害児の母親の生活困難の一つとして、子どもによる暴力の問題を析出しているが、この生活問題は、あまり知られていなかった問題として提示したものである(山下 2025)。本セッションのタイトルにあらわられているように、親子間の暴力については、「時代が可視化した暴力」として捉えることが可能であろう。特に親から子どもに対する虐待行動については、そうした側面が強い。一方で同じ親子間であっても、障害児による暴力的言動については、母親によるケア行為が盾となり、その実態が露わになることはなかったのではないだろうか。母親が障害児である子どもをケアすることは当然視されており、子どもがひきおこす問題に対して、母親がその始末をすることは、ケアや世話の一つとして遂行され、問題の解決が図られるからである。障害児の母親たちは、「肥大化する母親役割」の一つとして、ケアの一環として暴力への対応も行ってきているのではないか。本報告では、公私二元論を前提に母親がケアを行ってきたことで、ケアを要する子どもの暴力は未だはっきりとはみえない状況にあることの問題提起を行いたい。
報告者の調査に基づくと、母親が直面する発達障害児の暴力的言動については、 (1)子ども自身に向けられる暴力、(2)家族内で母親に向けられる暴力、(3)子どもの友人関係で引き起こされる暴力、(4)子どもの性的関心にもとづく暴力の4類型に区分が可能である。本報告では、これらの内容について紹介するとともに、母親たちが生活問題として、いかにこの問題に対処しているのか、考察を行うこととする。
第2部 「文化・慣習の名の下の暴力」 司会 李璟媛(岡山大学)
第1報告 ルワンダのジェンダー変革を生きる女性たちと地域社会:その暴力的側面と葛藤
近藤有希子(愛媛大学)
ルワンダ共和国では、1990年代から凄惨な紛争が発生し、1994年には虐殺を経験した。紛争と虐殺によって相対的に男性が多数亡くなったルワンダでは、虐殺後の現政権によってジェンダー変革が積極的に取り組まれている。本発表の目的は、虐殺後のルワンダにおいて社会的な女性の地位が向上しているなかで、地域社会に暮らす女性たちが、周囲との関係においてどのような葛藤を抱えているのかを描き出すことである。
ルワンダの女性は、従来、父系親族集団の男性との関係を通して生活の基盤を獲得してきた。しかし虐殺によってその構成員の大半を失った女性たちのなかには、虐殺後に制定された法や政策などの政治的な介入を利用し、国から「虐殺生存者」としての認定を受けて経済的な援助を得ることで、女性だけでの居住を可能にしている者がいる。しかし、ときにそれは虐殺後に再婚した男性と距離をとることで達成されており、そうした機会を積極的に享受しようとする彼女たちの姿は、認定を受けていない大部分の村人からすれば、道徳性の欠落した振る舞いのようにも映る。
また一方で、紛争以前から続く人口増加と相続地の減少は、人びとがその生存を土地に頼ることを困難にしてきたが、そのことは、土地との相互関係において重要な意味を有してきた父系親族集団が瓦解しつつあることをも意味している。そのなかで、とくに農村社会で暮らす若い女性たちは、婚資を介した正式な婚姻手続きが踏まれないことによって、男性との関係において一層弱い状態に置かれる傾向にある。それに対して、そうした状況をみずから打破しようとする女性は、場合によっては周囲から「女の子なのに」と咎められることもある。
このように、虐殺後のルワンダにおける一見華々しいジェンダー変革のなかを生きる地域社会の女性たちは、いまなお男性との関係において弱く不安定な立場に置かれているか、そうでなければ、周囲からの暴力的なまなざしを伴うことも多く、葛藤を抱えながら生きている。
第2報告 「メキシコにおける中米移民と『暴力』」
佐々木祐(神戸大学)
出身国における貧困と治安悪化を背景に、「北」を目指して移動を続ける人々の存在は、とりわけその理念的な「終着地」であるアメリカ合衆国における近年の変動により極めて政治的な形で焦点化されている。メキシコは、そうした人々の移動経路であるとともに、滞留地=「引き延ばされた国境地域」としての役割をより強く果たすようになっている。また、そうした人々の移動ルート・資源を流用する形で、最近ではアフリカ・中東諸国出身者も移動の波の一部を構成している。本報告では、主としてメキシコ国内にさしあたり滞在する中米(ホンジュラス・エルサルバドル等)出身女性を対象として、移民・移動実践と当事者の家族のあり方を取り上げてみたい。特に、出身国および移動過程におけるそうした女性たちの生活を強く規定している「暴力」に焦点を当てて考察する。
中米において、海外からの仕送りが世帯の維持に重要な役割を果たす「移動の文化」が近年の社会再編においてさらに強化されようとしている。主として成人男性の移動・労働によって担われるそれは、結果として家庭内におけるマチスモ的な権力関係をも再生産してきた。ただし、近年はそうした関係性から逃れるために「移民の女性化」も進展している。また、経済的な必要性から女性も劣位の働き手として労働市場に包摂されるようになっているが、それは海外における「独立した稼ぎ手」としての自分の可能性を開示するきっかけともなりうる。また、「女性殺人 feminicidio」に端的に示されるような母国における「暴力の文化」の存在は、女性が自由に、安全に生きるための方策としての移動を焦点化する。
ただし、移民先においても「女性であるが故の暴力」は常につきまとうばかりか、自由に生きようとする女性へのスティグマもそこには存在する。
そうした移動過程における別の「家族」の関係性やその可能性について考察することを予定している。
第3報告 「韓国朝鮮の父系継承と『暴力』:17〜20世紀の養子制度をめぐる史的考察」
田中美彩都(東洋大学)
朝鮮王朝(1392−1910)は儒教を国是として成立し、祖先祭祀の継承を核とした父系親族組織(以下、門中と称す)の整備に注力した。朝鮮後期(17世紀)以降、祭祀の担い手を確保するために同じ門中に属する近親の男子を養子とする慣行が定着した。先行研究は、門中内の養子縁組を通じた息子の「交換」が、朝鮮王朝の特徴たる門中の安定的維持に貢献したと評価する。この養子慣習は、植民地期(1910−1945)を経て現代に至るまで、時代に応じて形を変えながら影響力を保ってきた。本報告の目的は、こうした韓国朝鮮の養子慣習に潜む「暴力」的側面を、それが盛行した17〜20世紀の史料に基づき浮き彫りにすることである。
まず朝鮮王朝の養子法は、当事者たる養子を意思決定過程から排除していた。朝鮮王朝の小説にも、主人公とその実母の意思に反して養子縁組が強行され、主人公が苦境に陥るさまが描かれる。日本が実施した慣習調査(1908年)でも、当事者の意思は婚姻以上に反映されないという養子縁組の実態が報告されている。
他方、養子になることを積極的に希望する人々もいた。近代朝鮮の新聞紙上には、時に自身を誰某の養子だと主張する広告と、それを虚偽だと否認する門中の広告が現れる。
養子に関する個人広告で最も多いのは、養子が養家の財産を無断で売却し、養家側がそれを無効だと主張するような、家産に起因するものだった。養子制度が門中の維持手段であると同時に、養子にとっては財産獲得の機会だったことを物語る。
こうした状況下で養子制度の隠された被害者として浮かび上がるのは、夫を亡くした女性たちである。夫を亡くした女性は門中内で不安定な地位に置かれたうえ、夫が生前に迎えた養子との不和、養子の放蕩による経済的困窮など多重の困難に直面した。
継承を目的とした養子制度は基本的に養父と実父の合意のもとで門中内の男子を養子に迎えるという男性間での営為であるがゆえに、儒教的家父長制と女性をめぐる従来の議論からは見落とされがちであった。しかし男性主体の養子制度でも女性に「暴力」の皺寄せが及んだことは、韓国朝鮮の家族の伝統を考えるうえで見逃せない。
第4報告 「明治前期のDV離婚裁判」
村上一博(明治大学)
江戸時代の幕府法・藩法においては、離婚原因についての一般準則は存在せず、妻側から夫に対して奉行所に離婚を訴えることも法的に認められていなかった。
明治6 (1873) 年5月15日太政官第162号布告によって、妻の離婚請求権が創設されたが、明治31 (1898) 年7月に民法が施行される以前には、夫による暴虐行為(暴言を含む)を理由とした妻側からの離婚請求は、伺・指令など行政通達では認められていなかった。とはいえ、この種の裁判例は全国各地で散見される。報告では、典型的な裁判例を何件か紹介する。
結局のところ、明治民法が施行される以前において、妻に対する夫の暴虐行為が離婚原因として認められることは裁判所の共通認識であった。フランス民法(1804・1884年)第231条が「夫婦中一方ノ者過慾、苛虐又ハ至重ノ害ヲ受ケタルコトヲ以テ原由ト為シ互ニ離婚ヲ訴フルコトヲ得可シ」(箕作麟祥訳)と定め、また施行されなかったとはいえ旧民法第81条2号も「同居ニ堪ヘサル暴虐・脅迫及ヒ重大ノ侮辱」を離婚原因として認めており、これらが法源として、裁判実務で運用されていたのである。
もっとも、フランス民法および旧民法の注釈書は、例外なく、当該規定は相対的離婚原因であって、事実認定は裁判官の裁量に委ねられると解説しているから、暴虐行為についての「立証」の成否によって判決結果が分かれたことは、言うまでもない。
被告の夫は、ほぼ例外なく、妻に対する暴虐行為の事実を否認し、あるいはそれを認めた場合であっても、家ないし夫の対面を維持するための正当な所為であった旨抗弁しており、また、「立証」の成否を判定した裁判官の「裁量」に、彼自身の夫婦・離婚観や地方慣習・道徳などが反映されていた可能性も否定しがたい。全体的に見て、妻側の勝訴率は高くない。しかし、とくに控訴審段階の判決例には、離婚請求事由(夫の暴虐行為)についての事実判断をせずに、夫婦間の「情交」「情誼」が「断絶」「破綻」して「回復シ能ハサルコト」を理由に、妻の離婚請求を認めた裁判例が存在する。当時の裁判官たちの近代的「婚姻契約」観を垣間見ることができるのである。
第3部 「暴力が生まれる空間・暴力を防ぐ空間」 司会 李璟媛(岡山大学)
第1報告 「自己暴力の理解社会学―『ごみ屋敷』で暮らす高齢者のライフストーリー」
天田城介(中央大学)
本報告は、東京都X市における地域包括支援センターのスタッフにおいて「セルフネグレクト」と定義・解釈されている、成人子と離れて住む一人暮らし高齢者を対象に、このような一人暮らし高齢者はいかにして自らに暴力を行使してしまうのか、その自己暴力がいかなる文脈のもとで立ち現れているのか、それはいかなる家族関係のもとで自己暴力が行使されていくのか、そのような自己暴力は当事者の世界においていかなる意味で合理的であるのかを問うものである。いわば、「自己暴力の理解社会学」の試みである。本報告では、専門職においてさえ「ごみ屋敷に暮らすセルフネグレクトの事例」と位置づけられてしまっている、成人子と離れて暮らす一人暮らしの当事者たちが、その実、家族や友人との親密な他者との記憶を刻印したモノを抱き続けることによってその記憶を継承していること、そのように記憶を継承し続けることによって「自分は子どもを大事にしてきた」という当事者のアイデンティティを達成するがゆえに、自己と成人子家族との境界設定を強化してしまうこと(自らがその境界を侵犯していないことを常に自確認していくこと)、これまで成人子家族もまた極めて厳しい状況で生活してきたそのプロセスを理解するがゆえにこうした境界設定を常に意識せざるを得ないこと、その社会的帰結として、自らに対する暴力の行使につながっていたことを明示するものである。そのような「言語化されない自己暴力の行使」はまさに当事者たちの世界においてはその限りで合理的であったのだ。このように自己暴力を行使した人びとを他者化することなく、「自己暴力の理解社会学」として読み解いていきたい。
第2報告 「生活に関する事務的行為の社会化」
税所真也(東京大学)
依然、家族・親族に期待されている社会的行為として、財産管理(家計の管理、空き家対応等)や居所を移動する際の契約行為(入退院、入退所の手続き)などの領域がある。本報告では、これらの社会化のあり方について、成年後見制度のひとつである任意後見制度や家族代行サービスに着目して論じる。自己決定を貫き、家族・親族が生みだす暴力を回避するために、かつ、家族であることを唯一の理由とし、これらの遂行を社会から当然に期待される規範を問い直すことを試みる。
現行の成年後見は自己決定を保障するための制度として、介護保険制度にあわせて整備されたものであり、高齢者等の虐待防止法に位置づけられているように、個人の尊厳を保障する制度だと考えられる。
しかし、後見人(家族であれ専門職であれ)という存在が本人の代理権をもつことによる「暴力」も生みだされる。これは国連障害者権利条約への抵触(第12条)という観点から批判されている。行政から「任意後見制度を悪用した財産侵害等の被害」に関する注意喚起も発信されている。家族がいても代理決定による自己決定の侵害は起こるが、成年後見制度(法定後見制度・任意後見制度ともに)には、後見人の担い手次第であり、リスクに対するコントロールが難しいという問題がある。
他方、2024年にこれらのサービスを「高齢者等終身サポート」と位置づけガイドラインを発表した。団塊世代が高齢化し単身高齢者世帯が増加する中で、財産管理や居所をめぐる契約行為等を親族に頼ることを前提とした社会のシステムそのものが限界を迎えているといえよう。
個人の尊厳を守り、家族と専門職による暴力を回避するには、どのようなあり方が望ましいのか。家族であることを理由として期待される役割をどのように社会化していくことができるのか。意思決定と生活のマネジメントの社会化のあり方について考察する。
第3報告 「多様な家族を包摂する集合住宅のケア:ベルリンの事例」
森明子(国立民族博物館名誉教授)
暴力を防ぐ空間を、私たちはどのように構想できるだろう。ここでは、暴力はダイバーシティ(多様性)に対する不寛容から引き起こされることに注目し、ダイバーシティを包摂する空間はいかにつくられるか、という視点から考えていきたい。包摂するべきダイバーシティは家族の、多種多様なありかたである。本発表は、都市においてアトム化する家族が共在するための集合住宅の可能性について検討するものである。
集合住宅は、複数の住戸から構成されるひとつの建造物(ハウス)である。各戸は総じて「家族」と呼ばれるが、この場合の家族を一義的にとらえることはできない。結婚、非婚、離婚、再婚をめぐってあらわれる家族のかたちは、多様で、複雑で、変動もする。日常生活を送る住戸で誰と住むか、パートナーとの別住を選ぶ場合もあるし、他人のサブ賃貸人をおく場合もある。ひとり親の子育てや、高齢者や障がいをもつ人の介護が、戸内で行われる場合もある。
集合住宅の住人は、私的空間である戸内に立ち入ることを避けあう。一方で、集合住宅は全体でひとつのハウスであり、ひとつのハウスとしての集合住宅が、各戸のダイバーシティを包摂する空間をなす場合もある。そのような空間は、どのようにして生まれるのだろうか。
この包摂について考えるために、集合住宅の住人の住まい方に注目する。事例としてとりあげるのは、ベルリンの街区の集合住宅である。一帯は19世紀末に開発され、労働者家族が多く住んだ。西ベルリン時代に、外国人労働者家族や学生が住むようになり、今日にいたる。近年はジェントリフィケーションに見舞われている。特徴的なのは、文化背景も社会階層も多様な人びとが、隣り合って住んでいることである。この集合住宅で、暖房をめぐる配慮と共闘がおこなわれていることに注目する。状況に応じて、燃料資源である石炭を調達するための協力体制が、つくられたり、解かれたりする様相を報告する。
第4報告 「空間を使いこなし、暴力を飼いならす」
祐成保志(東京大学)
本報告では、郊外ニュータウンという空間に着目する。報告者が都市と家族の接点としての住居に関心を抱くようになったのは1990年代半ばであり、1997年に神戸市須磨区で発生した中学生による連続児童殺傷事件には強い衝撃を受けた。当時、この事件はニュータウンに内在する暴力性の現れとして論じられることがあった。ニュータウンや、それに先行する団地といった計画的な居住空間は、現代社会の病理を映し出す現象として、批評的言説の格好の素材となってきた。
これに対し、ニュータウンと暴力性を結び付けることを批判し、実証的な調査にもとづいて住民意識を分析した研究もある。もっとも、そこでは住民が個別化された主体として住宅という商品を消費する側面が強調されやすく、時間的変化や集合的実践をとらえる視点は弱かった。そして、新たに出現した巨大な居住環境に対して私たちが抱く、存在論的ともいえる不安とはかみ合わない
ニュータウンは、建築学や都市工学においても批判の対象となった。交通・戸数を確保するため効率的に私的空間/公的空間を分割・配置するだけでなく、中間領域(コモン)や多様な使い方を許容する計画が重視されるようになった。計画者の意図を超えた創発的な実践への着目は、ニュータウンを建造物やその集合体をこえた社会的な空間として読み解くという点で、実践的な社会学と言えるだろう。
居住者だけでなく、供給主体の違いも重要である。マネジメントの方針は空間の使われ方に影響を与える。さらにニュータウンでは、商業空間や小規模事業者が、私/公の二分法に割り込む重要な存在となっている。とくに、自ら郊外で育った世代が、福祉制度と商い、そして居場所づくりを重ね合わせた活動を展開している点に注目したい。その語りからは、モンスターペアレントやカスタマーハラスメントといった暴力性が、提供者(生産者)と利用者(消費者)の分離に由来しており、「共につくる」関係の回復こそが解決の鍵であるとする指摘も聞かれる。
本報告では、いくつかの具体的事例を通じて、ニュータウンにおける空間を介した社会関係の構築が、地理的制約をこえた親密性の拡大という変化とも交錯しつつ、計画された居住環境がいかにして暴力を飼いならし、多様な身体の共生を支えるフィールドとなりうるかを考察する。
プロフィール
【シンポジウム報告者】
上野加代子(うえのかよこ):徳島大学名誉教授 社会問題の社会学
李璟媛(いきょんうぉん):岡山大学大学院教育学研究科教授 家族社会学
磯部香(いそべかおり):高知大学教育学部准教授 家族関係学・家族社会学・ジェンダー論
山下亜紀子(やましたあきこ):九州大学大学院人間環境学研究院教授 家族社会学・福祉社会学・地域社会学
近藤有希子(こんどうゆきこ):愛媛大学法文学部講師 アフリカ地域研究・人類学
佐々木祐(ささきたすく):神戸大学大学院人文学研究科准教授 移民研究・ラテンアメリカ社会研究
田中美彩都(たなかみさと):東洋大学国際学部講師 朝鮮近代史
村上一博(むらかみかずひろ):明治大学法学部教授 日本法制史
天田城介(あまだじょうすけ):中央大学文学部教授 福祉社会学・医療社会学
税所真也(さいしょしんや):東京大学大学院人文社会系研究科助教 家族社会学・福祉社会学
森明子(もりあきこ):国立民族博物館名誉教授 文化人類学
祐成保志(すけなりやすし):東京大学大学院人文社会系研究科教授 文化社会学
【コメンテーター】
土屋敦(つちやあつし):関西大学社会学部教授 家族社会学・子ども社会学
小池誠(こいけまこと):桃山学院大学国際教養学部教授 社会人類学
山田昌弘(やまだまさひろ):中央大学文学部教授 社会学
【司会】
李璟媛(いきょんうぉん):岡山大学大学院教育学研究科教授 家族社会学
税所真也(さいしょしんや):東京大学大学院人文社会系研究科助教 家族社会学・福祉社会学