2024年秋季大会自由報告要旨

第1報告:「室町期今出川家における家の断絶と再興」
  玉土 大悟(中央大学文学研究科日本史学専攻博士後期課程)
 永続性を希求する嫡系継承の家が何を継承し、いつ成立したかという論点は、日本中世史においてこれまで様々な議論が重ねられてきた。堂上公家の場合、父子嫡系継承を希求する家については、概ね 13 世紀後半~14 世紀前半ごろには成立したとされる。
 家が成立し、社会にとって自明の存在となれば、次の段階として仮に家が絶えた場合、その再興がおこなわれることとなる。しかしながら、中世後期において家の再興がどのようになされたか、という観点での研究はほとんど手つかずの状況にある。
 そこで本報告では、中世後期公家における家の断絶と再興について、今出川家を対象として検討をおこなう。今出川家は応永年間後半に一度断絶したが、約 10 年後の永享年間に再興しており、家の再興としては早い時期の事例となる。今出川家の再興について、先行研究上では家の構造が分かる好例と評されるなど、家の相続を検討する中で断片的に取り上げられている。しかしながら、誰がどのように行動して、何を以て再興と見なされたかなど、その具体的な経緯は明らかにされていない。
 よって本報告では、まず今出川家の断絶とその直後に企図された「西園寺末子」による相続案を取り上げる。家同士の関係性を軸に、なぜ「西園寺末子」相続案が提案され、また失敗したのかを明らかにする。
 次に、「西園寺末子」相続案が失敗した後から永享年間までの約 10 年間、今出川家の残された人物たちが、家を構成するとされる家領や家記などにどのように関わり、再興に向けてどのような活動をおこなっていたかを明らかにする。また、この断絶~再興期にかけて、今出川家の誰が中心となって家の再興に携わっていたかについても検討する。
 以上の検討を通じて、家の再興において何が重視されていたかを明らかにすることにより、中世後期公家における家の実態解明を進め、その性質を考えたい。

第2報告:「近世大名家における子女の縁組相手選定にかかわる意思決定について‐萩藩毛利家を事例に-」
  根本みなみ(東北大学東北アジア研究センター)
 近世大名家子女の縁組先をめぐっては、父である大名と母(この場合は大名の正妻であり、子女の生母であるか否かは問わない)の意向がその決定過程において大きな比重を占めたとされる。報告者も萩藩毛利家を対象に、隠居・藩主・世子それぞれが妻子を抱える中で、それぞれの子女の養育過程では各家族内における父の意向が最優先されたという点を明らかにした。こうした成果を踏まえた上で、本報告では最高意思決定者である父が不在となった大名家族内において、子女の養育や縁組相手やその条件を決定する機能がどのように担われたのかという点を見ていく。対象とするのは萩藩毛利家では近世初期には子女の早世率が高かったが、10代藩主斉煕の子女は世子となった斉広、聟を迎えた長女(蓮容院)以外に3女1男が成人した。また、同家では天保7年に斉煕・斉元・斉広が相次いで死去し、萩で養育されていた敬親が家督を相続した。敬親の家督相続時、敬親の正妻となる予定であった都美姫(斉広の遺児)は未だ幼年であり、江戸で生活する斉煕の遺児や都美姫、およびその生母たちの処遇は斉煕の正妻である法鏡院(池田氏)が取り仕切ることになった。この時期に法鏡院は子女の縁組という場面で表方の役人と交渉をおこなっていたが、婚出の時期や持参金の金額をめぐって意見を述べる法鏡院に対し、表方の役人は藩政上の課題を理由にこの訴えを退けていたことが確認できた。同時に、斉煕の生前に比べ、子女の縁組の相手の家格や萩藩毛利家の用意する持参金の金額が低下している状況に対し、家臣から法鏡院に対して縁組相手や条件を承諾するように説得がなされていた。このことから、縁組相手の選定及び条件の決定において、父の主導から母である法鏡院や新たな藩主となった敬親ではなく、むしろ家臣の主導へと変化が生じていたと言うことができる。

第3報告;「近世瀬戸内における港町の形成と家族・子ども──近世戸籍にみる民衆生活史」
  太田素子(和光大学名誉教授)
 数年前から「周防国熊毛郡曽根村水場浦旧版戸籍控」という史料の分析に取り組んでいる。この戸籍に関しては二つの先行研究があるが、そこで指摘された「別家」の広がり(単身者や若い夫婦が次々と世帯を新設したり消滅させたりしている)と、事例数はわずかだが子どもの移動(「所縁育」と報告されてきた)の実態を確認したいと考えて、この戸籍を速水融が開発した宗門改帳データベース(SACDB)の書式に落とし込み、家ごとの半世紀弱(1827-1872)にわたる小さな歴史を観察している。
 『平生町史』(1978)では戸籍総数を1827 /1859 /1872に各222/285/282戸とするのに対し、石川敦彦は1827(文政10)年が331戸、1871(明治4)年では478戸と報告し、両者には相当大きな開きがある。石川はその違いを、町史が戸籍4冊のうちの3冊しか分析対象にしなかったためと指摘したが、なぜ残り1冊を対象としなかったか町史は言及していない。
 今回筆者は、町史が対象から外したのではないかと考える1冊178戸分のSACDBを完成させた。水場浦は天保元年町方に指定されたので浦方の村に属する他3冊と区別したのではないかと仮説的に考えているが、筆者はむしろこの1冊の戸籍がこの時期この地域の最も特徴的な人口変動を表していると考えている。
 町の開発は天保年間初期の塩田開発と港の形成による。戸籍から伺える最盛期は弘化年間で、好調を維持出来た期間は20余年、あまり長くはない。それでも大野毛利家によって開発された平生塩田が次々閉鎖されてゆく幕末維新期を、後発の小さな港町が乗り越え、その後も近代塩業が抱えた困難と戦いながら1960年前後まで塩の町として生き続けた歴史は注目に値する。筆者は先に2つの戸籍から各25戸合計50戸の抽出調査を行い別家の創設と消滅、養子の増大、所縁育などについていくつか仮説を提起した*。今回は1冊の戸籍全体を分析しその仮説の検証を行うことで、形成期の港町に生きた人々の生活の事実と選択の意味を読み解きたい。

*太田素子「近世瀬戸内海村における養子・所縁育の性格と機能」教育史学会紀要『日本の教育史学』第64集,2021.pp.6-19.