2016年大会 自由報告要旨

2016年大会 自由報告要旨

近世越後「出稼ぎ」漁村の人口史的分析
――新潟市西蒲原郡旧角田浜村の事例分析を中心に――

張婷婷(東北大学大学院・経済学研究科)

 本報告は、近世期から出稼ぎ地帯として知られる越後の一漁村(西蒲原郡角田浜村)を 事例として、近世における農山漁村地域における広域労働力移動とそれを生み出す村落社会内部の人口構造や家族構造の特徴を明らかにしようとする試みの一つである。報告者の 問題関心は、近世日本社会における農村労働力の移動実態を歴史学的手法で明らかにする作業を通じ、地域的労働力市場と広域的労働力市場の交錯する近世的労働力市場の全体構 造とその特徴の解明である。

前回の報告(2013 年度第 55 回研究会・香川大学)では、角田浜村に残されている天保 15(1845)と文久 4(1864)年の「他所稼ぎ」関連文書を用いて、当該村の労働人口移動が 関東地域を中心地域とした「大工」「木挽き」に出かける 10 代から 30 代の男性技術労働者 の集団的移動であることを確認した。また、延享 5(1748)年から明治 3(1870)年までの「宗門帳」および「家数人別増減差引帳」、「家数人別惣寄帳」の分析を通じ、18 世紀半ば から明治初期まで人口増加傾向が持続した各浜村の人口変動の特性を明らかにした。角田浜村は連年自然災害に襲われ、必ずしも経済生活が好条件のもとに推移していたわけでは なく、被害からの脱出のために出産活動の調節がおこなわれていた痕跡も認められるが、それにもかかわらず、長期にわたって人口増加傾向がみられた理由の一つとして広域的労 働移動を伴う「他所稼ぎ」であったと考えられる。さらに、男性労働力を貯えるための人 為的な性別選択、大規模世帯の維持、多核家族世帯の優位性など、「他所稼ぎ」を前提とす るような人口や家族の構造が見いだせる。

今回の報告では、特に前回の報告で頂戴したコメントを踏まえ、宗派別の労働力排出状 況や人口・家族構造を検討してみる。この作業により労働力移動の宗派的特徴を確認し、さらに多核家族世帯を直系家族世帯と複合家族世帯に下位分類して、前回十分に検討しな かった世帯構造を再検討してみる。また、確認できる事例は少ないが、結婚圏、再婚事例もとりあげてみる。

前回の報告では角田浜村の農業・漁業・製塩業プラス「他所稼ぎ」の経済構造を検討し たが、今回の報告では角田浜村の見えない経済力、漁船持ち主の家からの「他所稼ぎ」労働者の排出状況および近世期角田浜村の本家・分家関係について検討し、「他所稼ぎ」という近世日本社会における農村労働力の移動を近世期農村の人々の就業選択問題の視点から解釈してみたい。

 

東電福島第一原発のある町の中世―鎌倉末・南北朝期を中心に―

岩本由輝(東北学院大学名誉教授)

 東日本大震災直後の 3 月末に最終的に定年を迎えた私は、水素爆発事故を起こした福島 第一原発のある地域でのレスキューをいかにすべきかを相馬市内の自宅で考えた。それは 私がかつて『大熊町史』・『小高町史』・『飯舘村史』の執筆にかかわったことから、これら町村における史料の所在をある程度知っていたからである。しかし、これら町村は警戒区域・計画的避難区域・緊急時避難準備区域になっていて住民は強制的に避難させられ、立 ち入りもままならない状態であり、いまだ現地でのレスキューに取りかかることもできないでいる。

ただ、相馬市内の旧家海東家から震災後住居の雨漏りがひどく、史料の保管が困難にな ったという相談があり、私が立会人となって全史料を相馬市教育委員会に寄付し、当時建設中であった相馬市歴史資料収蔵館に収蔵して貰うことになり、1 万点にのぼる史料目録を作製し、引き渡しの役目を果たした。

その過程で、福島第一原発のある大熊町・双葉町、それに隣接する浪江町・葛尾村をかつて支配していた標葉氏関連の史料 16 点が案文(写本)ながら発見された。そのうち、3 点は 1311(応長元)年の関東下知状、10 点は 1337(建武 4)年から 1351(観応 2)年にかけての軍忠状・着到状である。この地域は陸奥国標葉郡または標葉庄と呼ばれたが、1896(明治 29)年に福島県双葉郡となって今日にいたる。

ところで、3 点の関東下知状をみたとき、それが 1700(元禄 13)年に藤橋隆重によって 編まれた『東奥標葉記』にある、室原氏の先祖は標葉郡の中三ヶ村を領して標葉旗下と成者也、上代は鎌倉の直参也、其頃は号二標葉一、于時正安二[1300]年嫡子[隆氏]父[隆俊]の名代として鎌倉に参勤 は 於二其跡一父[隆俊]卒す、然るに所領の譲状を継母[尼法真]是を次男[隆実]に渡す、故に兄弟 [隆氏・隆実]公事に及び鎌倉以二御裁許一室原所領内下浦村を二男[隆実]に分知す、此時の 證状、今に室原の家に是を傳と云々、というくだりの、「此時の證状」にあたると判断することができた。そして、一枚目は隆俊の後妻尼法真、二枚目は武蔵国新開郷を出自とすると覚しき陸奥国御家人新開四郎三郎の妻となっている隆俊の娘に与えられたものであるが、三枚目は前欠のため隆俊の子である誰に与えられたものかはこのままでは不明である。ただ、夫あるいは父の所領が妻なり娘に配分されていることは、当時における相続のあり方を考える上で重要であるが、それは尼法真も新開四郎三郎の妻もともに北条得宗家の被官であったことに由来するという。なお、この 3 枚の関東下知状の発給者陸奥守平朝臣は幕府連署大佛宗宣、相模守平朝臣は幕府執権北条師時であることが、1 枚目の案文のきわめて正確な花押の影印によって比定できる。以後、標葉氏の嫡流は隆氏となり、隆実の流れは室原氏を称することになる。南北朝期に入って標葉氏の嫡流は南朝につき、室原氏は北朝方についたことは 10 点の軍忠状・着到状に明らかであるが、発給者は室原氏を室原氏とは記さず、標葉氏としている。 ただ、室原氏は北朝方として嫡流が動いた相馬氏の家臣化して行くことになる。確かに前 記『東奥標葉記』など、標葉氏は南朝方として北朝方の相馬氏によって滅ぼされたと読め る記述をしているが、ことはそれほど単純ではない。標葉氏が滅びるのは 1492(明応元) 年であるが、1392(明徳 3・元中 9)年の南北朝合一の 100 年も後のことであり、その間、 1410(応永 17)年には標葉氏は相馬氏・楢葉氏・岩城氏・白土氏・好嶋氏・諸根氏などと「五郡一揆之事」なる契状を結んでもいる。