田間泰子「戦後本土の『人口政策』」

第7報告 「戦後本土の『人口政策』」

田間 泰子(大阪府立大学)

GHQ占領下で成立した優生保護法は、1996年に同法が改廃され母体保護法が成立するまで、法改正を重ねながら戦後人口政策の法的根拠を構成した。本報告では、第6報告に留意しながら、「日本国との平和条約」(1952年発効)前から、1959年(受胎調節指導が厚生省公衆衛生局から児童局に移管されるまで)と1970年代初頭(政策として理想的な数値の達成)を経て、1990年代前半の少子化対策の開始までを扱う。
最初に、本報告の論旨展開の必要のため、法律・通知通達・審議会等を中心に歴史的な変遷の概要を述べる。戦後の人口政策においては、「自主自由」の場かつ政策的介入の単位として「家族」が位置づけられたという家族の政治的位置を確認し、自主自由と介入の混在こそを政策的特徴と主張する。そして、自主自由と介入の交錯の一様ではない状態を、農村・企業・戦前から恩賜財団母子愛育会が入っていた地域・戦前からの国民健康保険組合の影響・全くの自主自由の例など、多様な例(と数値)によって紹介しつつ、戦後本土で1970年代初頭までに、リプロダクションの統制がほぼ平準化されたことを示す。
この過程で、「自主自由と介入」は量的調整と質的調整をめぐって3つの側面で展開した。
第一に、1953年から政策が具体化された受胎調節特別普及事業である。量的側面での平準化において、質的調整のまなざしを孕みつつ介入的政策として行われた貧困層への受胎調節特別普及事業について、それを求める女性たちと介入の交錯をデータを示しつつ描く。同時に、この政策が1940年代から生活保護法などの社会福祉と強く結びついていたこと、また戦後の貧困からの脱出、貧困層への優生思想的なまなざしや、社会保障政策(生活保護費の削減)など、複雑な文脈を有したことを指摘する。
第二に、母子衛生政策の一部として展開された1959年から1990年代前半までは、量的調整が「自主自由」かつほぼ順調に行われていることが政策の前提とされていた。近年の先行研究で明らかにされているように、この時期は出生前の胎児診断が普及した時期にあたる。1959年に受胎調節指導が母子保健に移管されたことで、人口政策は新たな時代を迎えた。すなわち、量的調整が達成されたという認識のもと、質的向上が残された課題であるという政策認識である。これを、厚生省官僚であった黒木利克、母子保健センター、リプロダクションの統制が開業医と女性本人に任されていく過程と関わらせつつ論じる。
第三に、「自主自由」と介入の交錯という歴史のなかで、1996年まで一貫して行われてきた介入として優生手術が存在した。これにより、「家族をつくる権利」を奪われた人々が存在する。ただ、訴訟など日々状況が展開しているところであり、本報告は自ずと限界があるが、できるかぎり言及したい。
以上に関し、国の政策の変化を示すとともに、政策が人々の身近な生活空間においてどのように実現されたのか、つまり人口政策と日常生活の架橋を、各地の多様な事例とその一例として大阪府のデータを通して示したい。そのプロセスは地域、また個々の女性の状況によってかなり異なった。この点は、少子化と少子化対策が進行する一方でほとんど何の法的規制もないまま生殖補助技術や出生前診断等が普及している歴史を理解するために、必要である。人口政策が明白に無い/認識されない状態で、人々の自発的行為(自主自由)として事態が進行してきたことの問題性を考え、現代的課題につなげたい。