第1報告 「近世大名家における『家』構成員をめぐる世代間関係」
根本みなみ(筑波大学)
近世大名家に生まれた子ども、特に男子については嫡子とそれ以外の傍系成員に区別することが出来る。前者が将来の家督相続を想定したいわゆる世子(嫡子)と称されるのに対し、それ以外の傍系男子については将来の家督相続を想定しない存在とされる。しかし、当然嫡子やその子孫(嫡系)により家督相続がなされるかは保証されておらず、後継者の確保という点を鑑みれば、大名家にとって複数の男子の誕生は歓迎されるものであったようにも見える。また、無事嫡子が成長した後、嫡子となれなかった傍系成員らの生活や「家」内部における位置づけについては史料的な制約もあり十分に明らかになっているとは言えない。家督相続に関与しない傍系男子の行く先としては(1)分家(2)出家(3)養子入り(4)部屋住みの四つが想定されるが、本報告で特に注目したいのが(4)部屋住み、つまり生家に残る残留成員である。『寛政重修諸家譜』を用いた竹内利美氏(『家族慣行と家制度』恒星社厚生閣 1969年)の分析によれば、同書に名が記載された大名の男子3023人中おそらく部屋住みのまま生涯を終えたと考えられるのが580人確認出来る。これは3023人の中でも19.2%を占めており、大名家に生まれた男子の多数が生家の内で生活を継続していたことが分かる。
また、こうした傍系成員は一代限りの存在ではない。本報告で分析対象とする萩藩毛利家の場合、近世初期から家督相続者以外の男子の早世が続いた。しかし、近世中期から後期にかけては、世代を超えた多数の傍系成員を内包し、そのなかから家督相続者を選ぶこととなった。7代藩主重就の子親著が部屋住みとして毛利家の内に残り、その子孫もその後3代にわたり毛利家内に残った。さらに、10代藩主斉煕は実子斉広をもうけながらも、実子成長までの中継ぎの当主として先述の親著の子である斉元を指名した。このため、萩藩毛利家の内では斉煕の子と、斉元の子、斉広の子、親著の子孫という4つの集団が共存することとなった。従って、これらそれぞれの集団が毛利家という一つの大名家内部でいかなる位置づけにあったのか、集団間の関係性を含め明らかにする必要がある。
そこで本報告では、これら各集団内における構成員への関与、特に子どもに対する養育の実態を分析することにより、毛利家という一大名家内部における「家」構成員の関係性を明らかにしていく。特に本報告で注目するのが、隠居・大名・世子が死去し、本来家督相続を想定されていなかった毛利敬親による家督相続がなされた前後における「家」内部の関係性の変化である。当該期は先述した4つの集団がそれぞれ中心となる父親(家長)の死去を経験した。そのなかで、傍系成員からの家督相続という自体がこれらの集団間の関係性にいかなる影響をもたらしたのか、大名の死去・家督相続という世代交代との関連のなかで明らかにしていく。