2014年度 比較家族史学会秋季大会 予稿集 2014年11月15日 愛媛大学法文学部

2014 年度 比較家族史学会秋季大会
予稿集
2014 年11 月15 日
愛媛大学法文学部

【自由報告】

◎報告者 張婷婷(東北大学大学院経済学研究科博士後期課程3 年)
◎報告題名(変更あり)
近世期長野県川中島町今井村の歴史人口分析と五人組
◎報告要旨
本報告は、長野県川中島町旧今井村(藩政村)に残された近世以降の村落史料(小林家文書および堀内家文書)を用いて、歴史人口学的な視点および家族史研究の視点から、近世農村社会の人口移動とそれを生み出す農村内部の家族構造を明らかにしようとするものである。最終的に、その背後に存在する村落社会の経済構造を解明することによって、近世日本における地域的ないし広域的な労働力移動の実態とそれを生み出す構造を明らかにすることを目的としている。
報告者は、これまで近世日本における人口移動の実証研究の一環として新潟県西蒲原郡角田浜村の事例研究に取り込んできているが、長野市川中島町今井村の事例が近世期信州において盛んにおこなわれていた現金諸稼ぎの実態を明らかにできることが判明したため、これを角田浜と同様の視点から分析してみようと考えた。同村には、連年の五人組関連資料が残されており、人口動態とともに村落内の様々な共同性の諸相を明らかにする手がかりを得ることができる。作業途上であるため、まだ最終的な結論を出すにいたっていないが、当該村について、近世から近代初期までの行政支配、18 世紀初頭からの現金諸稼ぎ、当村の人口変動の概要について、これまでの分析をもとにして、大まかな展望を試みてみたいと考えている。

報告者は、今井村において宗門改帳が残されている享保16(1731)年から明治6(1873)年にいたる時期の今井村において、総体としての人口動態(増加)の趨勢を支えていたのは、人口の自然増ではなく、周辺村落からの労働人口の移入であったと想定している。さらに、残さされた史料群から、今井村は、近隣の村々の労働力「需要元」であると同時に、江戸という近世都市の武家奉公市場に対する労働力の「供給元」でもあったことが判明する。この労働力の需要元であると同時に供給元でもあるという、相反するような労働力市場の二面性は、本来この時期の地域的・広域的な労働力市場というものが、内容的・質的に異なる構造と性格を持った労働力市場であったということを物語っていると考えられる。近世期における今井村在住農民の通婚圏は、村内にとどまるものではなく、むしろ近隣の村々を「縁付き」先とした「村外婚」の方が多く、その傾向は、当初より明治初期まで同様に持続し続けている。しかもこの婚姻圏の範囲は今井村に「労働力」を提供する「労働力市場」の範囲とかなりの部分が重なっており、両者に一定の相関関係が存在するのではないかと考えられる。
このような諸論点に着目しながら、近世日本における労働力移動という社会経済的な現象の持っていた性格と構造がどのようなものであったのか、史料に依拠した検討を試みてみたい。

 

【ミニ・シンポジウム】 「家計と消費」

趣旨説明

高橋基泰(愛媛大学)

本ミニ・シンポジウムは、学術振興会科学研究費基盤研究B 海外学術調査「家・家族・世帯の『家計』に関する日欧地域史的実証対比研究」(研究代表者・高橋:平成25~27 年度)の中間報告の位置づけをなす。
当該研究の目的は、日本および西ヨーロッパ社会において市場経済形成期に登場してくる農民の家・ 家族・世帯の「家計」に着目し、その形成史を明らかにすることである。市場経済化に 対応する村落社会を「家計」の形成史として比較分析し、小農理論的把握では捉えきれない近代的市場経済社会出現の複雑なプロセスを復元する。
本研究計画では、
1)市場経済形成期の日本および 南東欧を含む西洋社会各地域における「家々」を家計の形成史という観点から歴史学的に再検討し、
2)家・家族・世帯とそれらが属する「村」との連関を具体化し、
3)「家計」の背景をなす生業の構造(家業・家産)に焦点をあてながら日欧における市場経済化の地域的特質について対比分析する。
本研究は、基本的には基盤研究「西洋における『家』の発見:日欧対比のための史的実証研究」(平成 22~24 年度)の発展型である。そこでは、独自の歴史的存在である 家業・家産・家名の継承をおこなう日本の「イエ」を基点に、家の普遍的要素である直系家族・農業経営組織体・住居を準拠枠として、南仏ピレネー地域における文字通りの「家」の発見に始まり、中欧(ドイツ北部)および北欧(フィンランド)でも日本の「イエ」に匹敵する存在(「大きい家 Grand House」)を 実証した。他方、家的要素の比較的希薄とされているスウェーデンやイギリスでも親族集団が、1 つの 村落や教区に限定されず、隣接地域全体で実体として検出可能なことも明らかにしている。
本研究では、「家」が対比のための準拠枠としてある。「家」とは、祖先の祭祀を祀り、家業・家名・家産・家格とを子々孫々まで継承しようする、日本独特の歴史的存在である。そして本稿では「家」の切り盛りのための数量的表現である「家計」に着目する。「家計」の主体として相続されているのが「家」、というのが日本の立場である。もしかすると日本の「イエ」は欧米の人、とくに北欧人には理解されないかもしれない。しかし、家計であれば理解されるのである。相続も理解される。家計の相続も理解される。では、なぜ「イエ」が理解されえないのか。そこに謎がある。しかし、歴史的背景を付加することにより理解しようと思えば理解できるのである。それは北欧とりわけスウェーデンでも、実は20 世紀には「家族の土地」を通じて存在する「家」概念があるからである。時期的な違いを超えれば理解にいたる経験をしているのである。
ここまでの研究成果としては、新データを組み入れ分析を進めた結果、「家計」形成が、当該村落主要同族における各家系の始まりとともに18 世紀中葉であることを、宗門改帳人口データおよび家系情報から導き出している。他方、本プロジェクトと図らずも同時期に進行していた欧州消費経済史研究ネットワークとのタイ・アップが成立し、日本の研究と欧州における研究水準の照合および議論がなされている。その内容は多岐にわたるものの、大きくまとめると、商品経済の進展を背景に、欧州の家族・世帯では、国・地域毎に偏差がありながらも、総じて消費経済についての具体的変化が時系列上でたどりやすい。しかし、家計の形成という点では、日本の今回の上塩尻の事例の方がより明確に現れる、という対照をなす。
上記新史料群の「発見」には、頼母子・無尽講など地域信用・金融と関わる文書も含まれる。家計形成とともに、余剰資金をいかに活用するか地域経済の文脈で模索がなされていた過程を探るのに必須の史料である。そして、地域信用・金融のあり方は、欧州における地域経済と家族・世帯においてもやはり消費経済の進展に歩調を合わせるものであったことが、主要研究対象であるケンブリッジ州ウィリンガム教区の属するイギリスにおいて、現行の遺産目録など教会検認記録を系統立てて用いたC. Muldrew 等の研究で明らかになっている。

 

佐藤善右衛門家の蚕種経営と家計
-上塩尻村の家々における「家計」の成立-

長谷部弘(東北大学)

 本報告は、長野県上田市近郊の旧上塩尻村における蚕種家、佐藤(藤本)善右衛門家とその周辺の家々の家業経営を「家計」の視点から検討してみようとするものである。
近世農村社会における一般農家層の「家」の成立は、家族人口史研究の分野において宗門改帳の記載内容の検討によって18 世紀後半以降とする見解が示されている(平井晶子)。他方、経済史研究における「小農経営」の一般的成立(小農自立)は、検地帳等の記載様式の変化を根拠として17 世紀半ば以降とされており、家と小農経営との間の関連性を問う議論は欠落している。報告者は、両者の間の論理的な隙間を架橋する作業の一環として、18 世紀半ば以降の農村地域における市場経済化と農家における「家業」の形成過程を実証的に検討し、そこで「家計」がどのように形成されるのかを検討することが重要な意味をもつものと考えている。
いささか教科書的に述べると、「家計」を主体とした「家業」が「稼業」の拡大と共に「家計」と「稼業経営」とに分離され、そのことが近代的な市場経済に適した経営体の登場として説明されることになる。しかし、実際の農村地域における農家層の「稼業」のあり方は一義的なものではない。各家々に残された家業関係の文書史料を読むかぎり、むしろ、当初農業経営にもとづいた家業全体は帳簿等の記載を欠いた「家内の賄い」として日常的に処理されるだけであり、帳簿記載による「家計」の登場は市場向けの生産・商業流通活動である「稼業」が成立し、その活動内容を確認する必要上作成されるようになる各種帳簿類の登場とともに成立するもののように思われる。
上塩尻村において、蚕種稼業が開始され、村内農家が「蚕種商い」のために、公的に村外へと出かけはじめるのが1740 年代のことであった。もちろん、それ以前にも内々の蚕種取引活動は行われていたが、それは村内農家の中心的な稼業とはなっていなかった。以後、1750 年代半ばを跳躍期として、18 世紀後半以降、上塩尻村内農家の7~8割近くが蚕種製造と蚕種商いに携わるようになり、上塩尻村は、信州地方における蚕種製造と商いの中心村落となっていく。その中で、佐藤(藤本)善右衛門家は最大の「蚕種家」へとのし上がっていくわけであるが、その蚕種商いの活動には、都市部の純然たる商家とは異なる農家の「稼業」としての性格がまとわりつく。農村地域における市場経済化のプロセスが村落社会のさまざまな共同性と結びつきながら進行するが故の独特の性格を持つことを知ることの出来る一例であろう。
報告では、以上のような大枠のもとに、史料分析の作業の進度に応じた範囲ではあるが、佐藤家の「家計」の性格について論じてみる。

 

原一族の家計形成と蚕種取引

京都産業大学 山内太

 本報告は、本家と分家それぞれの家業経営を確認することを通して、分家の家計形成の実際について明らかにすることを課題としている。これは、名寄帳や宗門帳の記載様式から小農自立を議論し、小農経済の独立、自立化を考えることは困難であるという問題関心からきている。具体的には、信州上田藩上塩尻村原与左衛門家とその分家儀兵衛家を取り上げ、与左衛門家に残された資料を基に、分家儀兵衛家の家業経営の自立化、家計の形成について検討してみたいと思う。
与左衛門家に残された資料、特に差引帳・勘定帳を通して両者の関係を確認してみる
と、以下の事が見いだせた。これらの資料において両者は、彼らの間の資金の遣り取りの〆を行っている。与左衛門家からの仕入金を始めとした借入金を、儀兵衛による返済・支払、貸金等によって相殺していた。しかもこの両家の差引・関係は、世代を越えて行われていた。また両者の差引を示す資料からは、両家の間で様々な種類の資金の遣り取りがなされ、それらを差引していた。分家は現金の借入、上納諸役の立て替え、進物代、雇人代等を与左衛門から借りている。一方、貸金、返金、奥州為替、種代、桑代、包丁のような日用品までも、分家は貸方として記録していた。家業経営関係に留まらず、年貢納付関係や日用品購入に至るまで、様々な資金のやり取りを行い、それを差引している。両者の日常生活を送るための資金のやり取りの中に、家業経営資金のやり取りが埋没していた。そして単年度ごとに決済せず、それぞれ貸越・借越として翌年に繰り越していた。当然ではあるが、両家の関係性の長期的な継続を前提として資金がやり取りされ差引されていた。
このように見てくると、蚕種商いという家業経営を行っていた小農であっても、その自立を単純に決めつけることは困難なように感じられる。確かに儀兵衛家は、自立して家業経営を行っていたようにも見える。しかし彼の活動は、本家からの安定した資金提供によって支えられていたものであったし、また両者の必要な資金は、日常生活に必要な資金も含めて定期的に遣り取りされ、差引され、繰り越されていったのである。単純な資金の出し手と受け手、あるいは委託者と代理人という関係に留まらない、生活を営む上で、あるいは家存続上、続いていくことが当たりまえの、継続することを前提とした、もちつもたれつ、相互依存関係にあった。小農の家業経営は、この相互依存関係の中で「自立」して行われていた活動であった。またそのような本家との関係性の中で形成されてきた「家計」であった。つまり近世的な家業経営のあり方であり、近世的な「家計」が形成されていたと言えるのではないだろうか。

 

馬場家の家計と蚕種取引

近畿大学 岩間 剛城

 本報告は、信濃国小県郡上塩尻村の中で有力な同族の一つであった馬場家の「家計」について、検討を試みるものである。
最初に上塩尻村内での馬場家の位置付けについて確認をすると、馬場家は上塩尻村内において、一定の存在感を持った同族であった。庄屋役については、馬場半右衛門が、万治元(1658)年から延宝6(1678)年までの時期に、佐藤半弥と同役で上塩尻村の庄屋役を務めた。それから約90 年後、馬場弥平次が、明和4(1767)年から寛政4(1792)年までの時期に、西原金五郎と同役で庄屋役を務めた。
上塩尻村における主要な集落としては大村、本宿、新屋があった。文禄の洪水(1595)年で大きな被害を受けた本宿の再開発に際して、馬場家は再興の主体となった同族であった。正徳2(1712)年以降、本宿に家屋敷が作られることになるが、その際に馬場猪右衛門が、最初に本宿に家屋敷を構えたのである。また、大村の東福寺のそばには北国街道から南に下る道があるが、この道は「馬場小路」と称されている。これらの事からも、馬場家は上塩尻村内において、一定の存在感を持った同族であった事がうかがえる。
馬場家の同族では、上田藩に調達金などを献上した事により、藩から恩賞を受けた者もいたが、その中には蚕種商人として活動した者も含まれていた。
本報告では、馬場家の同族のうち、馬場猪右衛門家(源左衛門家)を取り上げ、近世後期における同家の「家計」について考察を行う。馬場猪右衛門家(源左衛門家)は馬場家の同族の中では最大規模の家ではなかったが、先述したように本宿再開発の契機となった家であった。また同家は、蚕種商人としても活動していた。同家に関する史料としては、馬場直次郎家文書(上田市立博物館蔵)が現存しており、ある程度の検討が可能である。
本報告では、馬場直次郎家文書『金銀出入帳』を手がかりにして、以下の内容に関する検討を行いたいと考えている。
①近世後期の時点で、馬場猪右衛門家(源左衛門家)においては、「家計は成立」していたと考えられる。同家では、日常の消費支出などと合わせて、蚕種取引に関する金銭出入の記載も行っていた。また、金銭有高(保有額)についての計算も不定期に行っていた。ただし日常の金銀出入・消費支出から完全に分離して、蚕種取引のみを独立した会計として取り扱っていなかった。
②幕末維新期においては、蚕種取引の拡大・市場経済化の進展にともない、馬場猪右衛門家(源左衛門家)の金銭出入額は増加した。蚕種取引については、横浜との取引に関する記載もあり、開港による貿易開始の影響をうかがう事ができる。また講組織への金銭積立、講組織からの金銭借入なども見られ、同家の「家計」と地域金融組織との関連も強まってきていた。しかし、この時点においてもなお、馬場猪右衛門家(源左衛門家)では、蚕種取引のみを完全に分離・独立した会計として取り扱っていなかった。

 

家計が持続する名望家層と多出する無産者層
‐近世ドイツ・ヴッパータールにおける人口危機とその帰結‐

香川大学 村山 聡

はじめに
ヨーロッパ近世において、繊維産業の中心地として発展したヴッパータールは、ドイツ語圏、ライン下流地方、カトリックの拠点である大都市ケルンから60 キロメートル足らずの距離に位置しており、プロテスタント・カルヴァン派の拠点であった。カトリックが優勢であるベルク地方において、東側ヴェストファーレン地方のルター派の影響も受けたプロテスタント地域が形成されていた。
このヴッパータールの家産とその継承に着目した時、旧来から展開されてきた「プロト工業化論」、「勤勉革命論」さらには「市場の変化と移住」などの基本的な論点に加えて、「17 世紀の死亡危機の時代からの出発」あるいは「1687 年の大火災を契機とした移住」などに着目した場合、家計を維持できる階層と無産者という二つの階層の存在に注目しなければならないことを指摘したい。

1. 17 世紀の死亡危機の時代からの出発
オットー・ブルンナーの「全き家」理解は、家族史研究の進展に伴い、議論の対象からはずされ、古きドイツ語圏の家社会についての議論はもはやなされることはない。しかし、その批判の根拠とされたデータの多くが18 世紀以降の社会変化に関するものであり、初期近世前半期についての議論は極端に少ない。特に30 年戦争周辺の時代に多くの地域で観察された死亡危機がどのような社会的な痕跡を残していったかについては十分に検討されたことはない。この死亡危機の時代を生き延びた家(家系・家計)はその後の2 世紀の地域社会のあり方に重要な影響を与えたと考えられる。

2. 1687 年の大火災の与えた影響
疫病や戦争あるいは飢饉などの影響ももちろん重要であるが、同時に、地域社会を根本的に変化させた要因として大火災などを挙げることができる。1687 年5 月22 日に、ヴッパータールの中心地の一つである都市エルバーフェルトを襲った大火災は300 軒の家々を焼き尽くし、1,500 人の人々の住居を奪った。都市エルバーフェルトは領主に直ちにその後の租税免除を要請し、1687 年7 月10日、領主は25 年間の租税免除を認可し、都市エルバーフェルトへの流入民が増加した。カルヴァン派(改革派)の都市は、18 世紀末の時点で、45.8%が改革派、44.3%がルター派、そして9.9%がカトリックの都市へと変貌した。ヴッパータールは、改革派の都市から多信条社会へ転換した。

3. 小集団に蓄積された資産と無産者層の増大
資産家は特定の家系に限られ、多くの資産家・名望家層は市長あるいは教会の要職を経験、教会への寄付も多く見られる。都市や教会管理もほぼ寡頭制と言って良いし、明らかに有産者層と無産者層とは区分される。つまり、統計的なデータによれば、長く家系的にもまた家計という点でも継続的に定住していた階層と流動性の高い無産者層という二つの異なった階層からヴッパータールの経済社会は成立していたことがわかる。
ヴッパータールでは、経済発展の初期段階で農業は不可欠であった。しかし、農業活動は次第に衰退し、商業化にともない、土地価格が上昇、資産は特定集団に集中した。不安定な自然条件あるいは人口危機の存在は、社会変化の重要な契機となっており、定住する名望家層は、「婚姻」を通して「家」の持続を可能とすると同時に新たな起業化も進めた。他方で、周辺地域からは多数の移住者が流入し、必ずしも長く定住をしない無産者的階層を形成していた。

おわりに
農民家族から出発し、長く定住し、家系・家計を継続した名望家層は、「婚姻」を通して「家」の持続を可能とすると同時に新たな起業化も進め、また、地域社会における社会的責任も果たしていたのに対して、増え続ける無数の無産者層は地域の経済社会を維持する労働基盤を形成していた。一つ一つの都市や農村はより大きなネットワークの中でその存在の継続が保証されていたのである。

謝辞:本報告は、科学研究費補助金(基盤研究B)「家・家族・世帯の『家計』に関する日欧地域史的実証対比研究」(研究代表者:高橋基泰、研究課題番号:25301030)に基づくものである。

 

スウェーデン農村史における「親族ネットワーク」と「家計」に関する研究動向

佐藤睦朗 (神奈川大学)

 19 世紀のスウェーデンでは、18 世紀以降の「農業革命」やプロト工業の発達などを通じて、一般の農民層とは農場規模や消費行動において明確に異なる大農層が形成された。これは、フラットな農民層の両極分解によるものではなく、18 世紀初めの時点で既に上層農民となっていた層が市場化のなかで「家計」を確立したことによって、小農層との社会経済的な差異が顕在化した結果であった。つまり、スウェーデンの大農層の間で、市場化の進行とともに家計・家産が形成され、社会経済的な地位の上昇が達成されたのである。
こうした上層農民は、市場化が進行する以前から、婚姻関係を通じて形成された親族ネットワークに依拠することで、スウェーデン農村社会で名望家的な地位を占めていた。
16 世紀以来の四身分制議会における農民身分議員に選ばれたのも、多くはこうした親族ネットワークで結ばれた上層農民であった。このような親族ネットワークは、市場化が進行するなかでも機能し、上層農民の経済的基盤(家計・家産)の確立に大きく寄与したのである。
ただし、親族ネットワークと家産・家計の成立・拡大が常に親和性を有していたわけではない。スウェーデンでは、「親族相続権」(bördsrätt, 英語に直訳するとbirth right)とよばれる相続地に対する親族の優先買い戻し権が、18 世紀前半以降に弱体化しつつも1863 年まで存在しており、これによって、相続農場の所有権や売却をめぐり、親族と家が対立することも珍しくなかった。再婚によって親族集団が複雑に変化する傾向にあった18-19 世紀スウェーデンにおいて、この親族相続権の存在によって、親族ネットワークが家産・家計の形成の阻害要因となることもあったのである。特に小農・零細農においては、こうした事例が比較的多くみられた。
19 世紀を対象とした農村史研究(主にスウェーデン東部と西部を対象とした研究)では、大農層を除くと、農民層の家族間で農場所有権が移転されるケースは必ずしも一般的ではなく、父から子へと所有権が移転される「家族農場」というイメージは神話であった、と結論付けられている。だが、近年の研究によると、20 世紀に入ると、小農層が自身の農場の所有権を家族間で移転させる傾向が顕著となり、「家族農場」が一般的となった。このため、小農・零細層については、市場経済化がさらに進行した20 世紀において、ようやく「家産」・「家計」が形成されたといえよう。
こうしたスウェーデン農村史研究の成果をふまえると、親族集団と家の関係性や「家計」・「家産」の形成を考察する場合、農民層を一律に扱うことはできず、大農(富農)層と小農・零細農の間での差異を考慮に入れる必要があるのではないか、と考えられる。