2015年秋季研究大会発表要旨

【自由報告】

日本に結婚移住した外国人妻と母国のトランスナショナルなつながり

                   神戸大学大学院 胡 源源

一、研究目的 

近年、日本における国際結婚は減る傾向が見られるが、毎年2万組を維持している。2013年のデータによると、妻外国人・夫日本人の組合せは国際結婚の7割を占めている。妻外国人の中で、アジア出身者は8割を占めている。

日本における国際結婚の先行研究ではアジア出身の外国人妻に関しての議論は圧倒的に多いが、そこでのテーマは移住先である日本での生活関連がほとんどである。本報告ではこれまで論じられることの少なかった外国人妻の出身国との繋がりについて考察する。

二、資料

2014年12月から2015年2月まで兵庫県豊岡市及びその周辺地域で実施したアンケート調査を主な資料とする。地域の日本語教室に通う外国人妻に手渡しと郵送の方法で調査票を配布し、111票(有効回収率62%)を回収した。今回の調査回答者は多い順にフィリピン人(4割強)、中国人(3割強)、ベトナム人(1割強)であった。

三、分析結果

1、外国人妻と母国親族とのつながり:

中国人妻のおよそ6割は実家への支援をしていない。フィリピン人妻のおよそ9割が実家に支援をしている。ベトナム人妻のおよそ5割が実家を支援していない。

2、外国人妻と母国地域とのつながり:

中国人妻のおよそ7割は地元に寄付活動をしていない。フィリピン人妻のおよそ7割が地元に寄付活動をしている。ベトナム人妻のおよそ9割は地元に寄付活動をしていない。

四、結論

中国人妻とベトナム人妻は実家親族とのつながりが強い。一方、フィリピン人妻たちは実家親族だけではなく、地域社会とも深く関わっている。このようにアジア出身の外国人妻たちは何らかのかたちで母国との繋がりを保っている。とくに中国妻は実家親族への送金、フィリピン妻は地元の宗教団体への寄付活動、ベトナム妻は実家の家の新築の資金援助をしている。今後、アジア人妻が出身国との繋を保ち続ける中で、その繋がりの出身国への影響にも注目すべきであろう。

「付記」:研究は平成25年度~平成28年度科学研究基盤研究(B)(研究課題番号:25301010研究代表者:藤井勝)による研究成果の一部である。

 

【ミニ・シンポジウム「高野山における人口維持システム」】

①高野山の歴史

山口文章(高野山真言宗・総本山金剛峯寺)

 

本年は高野山開創1200年大法会の吉祥にあたる。50年に一度の盛儀とあって、国内外から多くの人々を迎えている高野山。辺境の山地にありながら連綿と維持されてきた信仰の求心力は、「真言密教の道場」という機構的な装置と、同行二人という言葉であらわされる「弘法大師信仰」が一体化した特徴的なシステムから発生している。
1200年前、「弘法大師が高野山を選ばれた意味」や「結界の意味」、「女人禁制をはじめとする禁制の意味」、「高野山と女性の歴史」など、高野山が真言密教の道場として成立する過程と要因をさぐる。

 

②高野山周辺の空き家からみる人口維持システムの変容

芦田裕介(宮崎大学)

課題
本報告の課題は、高野山周辺の空き家をめぐる現状について論じた上で、空き家が生じるプロセスを辿ることを通じて、戦後における高野山の人口維持システムの変容を明らかにすることである。

高野山では女人禁制の解除により結婚し家族を形成できるようになったが、戦後の1950年代をピークに人口は減少し続け、近年では空き家が増加しているという現状がある。これは、高野山において人口を維持してきたシステムに変容が生じているともいえる。その背景には、都市部への人口移動や家族構成の変化など様々な要因が存在する。本報告で注目する空き家とは、ある地域における「定住の困難さを測る指標」であり、「どのように空き家が生じるのか」を問うことは、「どのように地域で生活できなくなるのか」を明らかにし、逆に「どうすれば生活できるのか」を考えることにつながる。

方法
2015年6~8月にかけて高野町で行ったフィールドワークで収集した、各種統計と自治体史などの文書資料、行政が実施した空き家調査、報告者が実施した地域住民や移住者への聞き取り調査のデータなどを用い、高野町周辺において空き家が生じる要因について考察する。

議論
近年の住宅研究では、住宅問題を個々の住宅を超えた「住まい方」として考える必要性が指摘されている。本報告でもこうした視点を取り入れ、まずは高野町周辺の空き家の現状について確認する。次に「住む場所と人の関係」、とりわけ高野町における交通、労働(産業)、教育の歴史的変遷について概観する。これらの3点は、高野山周辺から外部に人口が流出する構造をつくりだしてきた。その上で、空き家に関わるさまざまなアクターの意識と行動に注目し、空き家が生じる要因を分析することを試みる。重要なアクターは、空き家の所有者、地域住民、行政関係者、移住者などであり、こうしたアクターを取り巻く生活環境及び空き家に対する意識や関わり方、アクター間の関係などが分析の焦点となる。

以上の議論を踏まえ、高野山周辺において「どのように空き家が生じるのか」をみていくことで、「人口維持システム」の変化の一端(移動の要因や定住の条件など)を明らかにし、システムが抱える問題について考えたい。

 

③女人禁制の解除過程-境内地から地域社会へ

島津良子(奈良女子大学)

江戸時代までの高野山上は金剛峰寺の境内地であり、厳格な修行の場として僧侶と単身者のみが暮らす地であった。明治5(1872)年に女人禁制は解除されたが、その規制は一夜にして無くなったわけではなかった。日露戦争前後までおよそ30年余りをかけて、境内地は、大字高野山という行政区へ、家族形成し世代を継ぐ住民が暮らす地域社会へと変化していったのである。本報告では、明治以降も繰り返し出された「山規」が明治39(1906)年に全廃されるまでの過程から、変貌する近代初頭の高野山の変化をたどる。

 

④前近代における僧侶の移動―金剛峯寺析負輯を中心として

森本一彦(高野山大学)

近世の高野山上には2000程度の寺院が存在したとも言われ、多くの僧侶が居住していたと考えられる。高野山は、明治5年まで女人禁制が守られ、出生率ゼロの社会であったために、その僧侶たちはすべて他地域からの流入者であった。また、僧侶や参拝者を支えていた商家・職人も周辺の集落などから通っていたのである。参拝者については、関東の自治体史などを中心に研究が進められているが、高野山上に居住した僧侶や商工業者などがどこから流入し、どのような人々であったのかを語る資料は少ない。特に人口学的な視点から検討するためには、数量化できる資料が必要となるが、今後の資料発掘によるしかない。本報告では、幕末の『紀伊続風土記』の編纂段階で各寺院から集められた住職の過去帳などの記録をもとの作成された『金剛峯寺析負輯』をもとにしながら、高野山の人口流入について検討することを通して、前近代における高野山の人口維持システムについて検討することを目的とする。