2016年シンポジウム第3部報告要旨

19 世紀の奥会津における遠方婚からみた地域変化

川口  洋(帝塚山大学文学部)

 産業化・都市化が本格化する以前の日本における遠距離婚姻移動(遠方婚)については、村落 から都市や都市近郊村落に向かう都市村落間移動が知られている。一方、本報告で研究対象地域とする陸奥国会津郡、大沼郡、下野国塩谷郡の一部を含む南山御蔵入領の村々は、隔絶山村と位 置づけられる場合が多く、婚姻移動も近隣集落に限定されていたと報告されてきた。本報告では、 遠隔地から南山御蔵入領に向かう遠方婚が成立した具体的状況を検討することにより、地域人口 が減少から回復に転じた 19 世紀中期の地域変化について考察したい。

南山御蔵入領の総人口は、18 世紀初頭を頂点として減少を続け、天明期(1780 年代)から天 保期(1840 年代)までの期間に最低を記録したのち、回復・増加に転じた。1840 年代から平均 世帯規模の拡大、世帯構造の複雑化、年少人口、とくに乳児の性比改善といった一連の人口現象が顕著となった。さらに、持高や宗派に関わらず、遠隔地出身の配偶者を受け入れていた。入婚者の出身地は、越後国蒲原郡を中心に、東は陸奥国標葉郡、西は越前国丹生郡や山城国京都、南は相模国愛甲郡・大住郡、北は陸奥国閉伊郡に及ぶ東日本全域にわたっていた。越後国出身者は 南山御蔵入領全域で、関東地方や中通り・浜通り出身者は会津西街道に沿った下野国境の川島組、 田島組の村々で確認できる。

明治初期の戸籍が保存されている 19 カ村のうち 12 カ村で、実父の本籍地が遠隔地にある配偶者を受け入れていた。会津郡藤生村では、遠隔地出身の配偶者を迎えた夫婦が全夫婦の 26%に達 した。遠隔地出身の入婚者は、大半が女性であり、出生順位の低い者が多い。遠隔地出身の入婚 者を受け入れた家の持高は、0.1 石から 7.5 石で、宗教・宗派は、神道、浄土真宗、時宗、天台宗、 真言宗、曹洞宗など多様であった。会津郡川島村、中荒井村、関本村、長野村、大沼郡仁王村で 遠方婚を行った夫妻の年齢は、20 歳代から 60 歳代まで均等に分布しているため、婚姻の時期は 1830 年代から 1870 年代とみられる。そのため、遠隔地からの入婚者は、1830 年代から増加し たと推測できる。

南山御蔵入領に隣接する中通り・浜通り・下野国では、南山御蔵入領出身の出稼人は確認でき るが、入婚者は報告されていない。越後国蒲原郡、魚沼郡では、南山御蔵入領出身の出稼人、奉公人、婚姻移動は報告されていない。越後国では、南山御蔵入領だけでなく、関東地方から東北 地方南部に奉公人、職人、配偶者などを送り出していた。したがって、南山御蔵入領への遠方婚は、越後国から南山御蔵入領や関東地方へ、南山御蔵入領から関東地方に向かう人口移動のなか に位置づけられる。

南山御蔵入領外からの縁組は、寺送り状と分限送り状を嫁ぎ先の名主が受け取り、代官宛に縁 組願書を提出して、代官からの御用状によって許可された後に、「宗門改人別家別帳」に登録する という手順で手続きが行われる。これらの文書から、夫妻の名前、居住地、宗派、旦那寺、旦那寺の所在地、夫の家族構成、持高のほかに、仲人の名前、居住地などを知ることができる。たと えば、会津郡鴇巣村では、文化 7(1810)年から天保 3(1832)年までに、越後国出身の入婚者 を 11 人受け入れていた。史料から確認できる入婚者はすべて女性である。入婚者の宗派、出身地の支配関係は多様であるため、宗教者や領主が婚姻を仲介した可能性は少ない。仲人の居住地は、5  例が入婚者の出身地周辺であるため、仲人が実際に婚姻の仲介をしたと判断できる。仲人が商人である場合が 5 例確認できる。

鴇巣村を含む伊南川流域の村々の生活を描いた「文化四年 風俗帳 伊南伊北郷」(馬場新家文 書)によれば、19 世紀初頭、煙草、麻、伊北晒しと呼ばれる麻織物、勝栗、火縄、柄杓などが江 戸、下野国をはじめ関東地方へ移出されていた。越後国からは、多くの商人が青苧(カラムシ)、 とりもち、楮、杉材などを買い付けに訪れていた。「尤、近来ハ所産物為商買余力有之もの一村之 内より壱弐人も江戸越後へ出入仕候」という一文は、この時期の社会経済的状況を的確に捉えて いる。18 世紀後期には、村ごとに常設店舗が開かれ、物を作れば売れる状況が、百姓の目前に広 がり始めていた。

多様な商品生産のうち最重要の特産物は、大麻、麻織物であった。南会津郡役所編『南会津郡 誌』東京國文社、1914 には、「明治維新前ニ在リテハ本郡ノ大麻ハ野州大麻ト竝ヒ稱セラレ、東 京及大阪ノ市場ニ歓迎セラレタリ。當時本郡ノ大麻ハ、伊北大麻ノ名ヲ以テ野州大麻ト共ニ京阪 ノ市場ニ取引セラレタルモノナリ。…又明治維新前ハ裃ノ材料トシテ需要多カリシ為メ製品モ優 良ナルモノヲ産シ、従テ價格モ廉カラス相當ノ収益ヲ得タリ。本郡西部ノ各村ハ當時大麻織物ノ 産額尠ナカラス。年々数千匹ヲ産セリ。(327 頁)」と書かれている。

大麻の播種から伊北晒の織り立てに至る作業過程のなかで、主として女性が担当したのは、オヒキと呼ばれる 30 日余を要する麻の表皮剥ぎ、オウミという麻の表皮を繊維に裂き 1 本につな ぐ作業、および冬季に行われたハタオリと呼ばれる麻布の織り立てなどであった。安藤孝寛編誌『鴇巣郷土誌第弐号』鴇巣同窓會、1915 には、鴇巣村における労働上の習慣として、「女子モ 麻織物盛ニ売レル頃(サイミ、モジ)、明治二十年頃マデ、秋ヨリ春ニ至ルマデ、全力ヲ注ギ機織 糸拵ヲナシ、男モ之ニ助力スル如キナリシ。」と記録されている。19 世紀前期に麻織物の移出額 を急増させるには、機織などの技術を身につけた女性労働力を確保する必要があった。

このほか、越後国三島郡間瀬村から会津郡檜枝岐村に来た大工が婿入りした事例、越後国蒲原 郡麓村から手間取として会津郡中妻村に入り稼ぎに来た者が婿入りした事例、会津郡中妻村の茅手が関東稼ぎ先の常陸国久慈郡照山村から配偶者を連れ帰った事例などが確認できる。

南山御蔵入領では、人口が最低を記録した 19 世紀初頭、女性労働力を必要とする大麻・麻織物 を主とする生産活動の活性化が労働需要を刺激した。女性労働力の需要が急激に拡大したため、嫁方に支払われる祝金も高騰した。生産活動の活性化に伴い、特産物を移出して、生活物資を移 入する商人も増加した。民衆は、性別選択的な出生制限の減少、領外からの女性入婚者の受け入れ、世帯規模の拡大、人口増加策の実施といった構造改革を行い、人口回復・増加への道程を自 ら選択した。越後国蒲原郡をはじめとする遠隔地から主として女性の配偶者を受け入れた背景に、 女性労働需要の急激な拡大、商人が仲介する地域間交渉の活性化といった地域変化が確認できた。

 

近代移行期における西南日本型結婚パターンの変容

 中島満大(県立広島大学)

 本報告では、歴史人口学/歴史社会学の立場から、近代移行期の海村に暮らす人びとの「結婚 のはじまり」に着目する。「結婚のはじまり」には何が起きていたのか、より正確に言えば、宗門 改帳という文書に「夫婦」として記載されるときに何が起こっていたのかを本報告は検討していく。また本報告では、近世後期から近代移行期の間に、先の海村から導出された結婚形態やその 行動規範の何が変わり、何が残ったのかを問う。さらに本報告は、昭和初期においても、結婚の地域性の「断片」が残っていることを示していく。

基本的な枠組みとして、本報告では、結婚年齢と離婚の地域性を採用する。まず結婚年齢の地 域性の議論は、歴史人口学者の速水融が明治時代の全国統計から発掘した「東へ行くほど結婚年 齢は低くなり、西へ行くほど結婚年齢は高くなる」というパターンを端緒とする(速水 1986)。 この結婚年齢の「西高東低」パターンは宗門改帳や人別改帳を用いた研究からも確認されており、 その地域性は徳川時代にまで遡ることができる(黒須・津谷・浜野 2012)。

次に離婚の地域性は、社会学者の坪内良博と坪内玲子の手によって、結婚年齢の地域性と同じ く、明治時代の全国統計から発見されている(坪内・坪内 1970)。離婚の地域性は、結婚の地域 性とは対照的に「東へ行くほど離婚率が高く、西へ行くほど離婚率が低い」という「東高西低」 パターンを備えていた。

こうした枠組みの中で、本報告は、結婚や離婚の地域性を備えた徳川海村の「結婚のはじまり」 に着目し、そこからみえる結婚形態が「近世のおわり」から「近代のはじまり」の中でどのよう に変容したのかについて分析を行っていく。

本報告では、肥前国彼杵郡野母村(そのぎぐん・のもむら)を取り上げる。野母村は、現在の 長崎県長崎市野母町にあたり、その三面を海に囲まれた漁業とのゆかりが深い場所である。徳川時代の野母村は、カツオ漁を主として、漁業を中心とした村落であった。

野母村に残る宗門改帳『野母村絵踏帳』(期間:1766-1871 年)は、いくつかの史料の欠年はあ るものの、約 105 年分の史料であり、その史料からその時代に生きる人びとのライフコースを再 現することができる。本報告では、『野母村絵踏帳』をもとにしたデータを使用し、分析を行って いく。これまでの研究から明らかになっている徳川時代の野母村の特徴を簡単にまとめておくと、 人口増加、人口規模の大きさ、晩婚、婚外出生の多さなどが挙げられることが多い(津谷 2002、 黒須・津谷・浜野 2012)。

野母村の平均初婚年齢(全期間:1766-1871 年)は、男子が 31.1 歳、女子が 25.0 歳であった。 ただしこの晩婚の傾向を期間別にみると、1800-19 年の男子平均初婚年齢は 33.7 歳、女子平均初 婚年齢は 25.6 歳と非常に高い水準にあったが、1860-71 年では男子平均初婚年齢が 30.1 歳、女子平均初婚年齢が 24.8 歳となっており、近世後期から近代移行期にかけて、野母村の平均初婚年齢は低下していた。

次に野母村の結婚を第 1 子誕生との関係からみていくと、野母村では「第 1 子の誕生を契機と して、史料に夫婦として登録される結婚形態」が多いことが明らかになった。たとえば、1766-79 年に結婚した者のうち、夫婦としての登録と第 1 子の記載が同年であったケースは、全体の 58.6% であった。けれどもこの結婚形態が、野母村において、常に主流のかたちではなかった。史料最終盤の 1860-71 年に結婚した者のうち、「第 1 子の誕生を契機として、史料に夫婦として登録さ れる結婚形態」は 32.2%と、その割合は小さくなっていた。代わりに割合を増したのは、「先に夫 婦として登録した後で、子どもをもうける結婚形態」であった。1860-71 年に発生した結婚では その 50.8%が、夫婦として記載された年の翌年以降に第 1 子が誕生していた。野母村の晩婚の特 徴を支えていた「第 1 子の誕生を契機として、史料に夫婦として登録される結婚形態」は、近代 へと向かう過程の中で、次第に「第 1 子の誕生を契機として、史料に夫婦として登録される結婚 形態」へと移行していた。

野母村における結婚形態の変容は、離婚にも作用していた。二つの結婚形態の割合が逆転した 1840 年以降で結婚した者は、それ以前に結婚した者と比べて、離婚に至ることが多くなってい た。つまり、「第 1 子の誕生を契機として、史料に夫婦として登録される結婚形態」が多い時代にあっては、第 1 子誕生以前の夫婦別れや交際の解消は、史料に記載されることない。しかし、「先に夫婦として登録した後で、子どもをもうける結婚形態」が野母村で拡がるにつれて、第 1 子誕 生以前の夫婦別れも史料に記載されるようになった。その結果、野母村では、1840 年以降、離婚 の割合が大きくなったと言える。

それでは近代へ向かう過程の中で、晩婚という地域性を支えた結婚形態は一掃され、先に夫婦 として登録した後で子どもをもうけるという標準的な結婚形態が支配的になったのだろうか。一時点の観測ではあるものの、1940 年『国勢調査』から婚姻届を提出していない配偶関係について みていくと、道府県別統計地図からは「西高東低」パターン、つまり東へ行くほど婚姻届を提出 していない配偶関係の割合が小さくなり、西へ行くほどその割合は大きくなる傾向を観察するこ とができた。

また昭和 20 年代、30 年代に野母村で生活を送っていた人たちに聞き取り調査を行うと、「スソイレ」という慣習があったことが明らかになった。スソイレとは、結婚式を挙げていない、あるいは婚姻届を提出してないものの、村落内では夫婦として認められている結婚形態をさす。徳川 時代の野母村で観察された知見を並べると、近代に入り、地域性の源泉としての結婚形態やそれに伴う行動規範は、持続している特性もあるのではないか。本報告は、近代へ向かう過程におけ る野母村の結婚形態の変容と、さらにその持続の可能性を提示したと言える。