2016年シンポジウム第3部2

恋愛から見合へ――家制度下の出会いと結婚――

服部  誠(愛知県立旭丘高等学校)

 報告者は、30年以上にわたって愛知県を中心に民俗の聞き書き調査をおこない、3万件を超え る調査データを収集してきた。ここでは、1400件に及ぶ関連データの分析を通じ、家制度の法的 確立が、出会いと結婚にどのような変化を与えたかを報告したい。

●恋愛慣行に基づく出会い

結婚相手に出会う機会として仲人を介した見合が一般化するのは、明治民法が施行されて以降のことと考えられる。それまでは恋愛によって結ばれるのが普通であった。かつての出会いの様子を聞き書きすると、娘遊びとか夜遊びと称される、一種の恋愛慣行の存在が確認できる。民俗社会では、一定年齢に達したムラの若者は若者組に加入し、ムラの祭礼や治安維持、消防や土木工事などに従事し、合わせて先輩からムラ人として生活してゆくために必 要な知識や心構えを教えられていた。娘遊びは、こうした若者組の仲間が連れ立って夜なべ仕事をしているムラの娘のもとを訪ね、雑談を楽しんでくるものである。最初は先輩に連れられてい って手ほどきを受け、慣れてくると同年齢の者同士で出かけるようになる。話の頃合いをみては 次の娘の家に移るため、一晩に何人もの娘のもとを訪れるのが普通で、そのうちに仲がよくなる と、ナジミといって二人だけで会う関係に発展した。好きになる相手は、容姿が優れていたり性格がよかったりという個人的な好悪で選ばれた。ナジミになれば他の者たちも遠慮し、恋愛が成就するように応援をした。夜、若者が一人で娘のもとに忍んで行くことをヨバイと呼び、「夜這 い」の字が当てられるが、恋愛相手の名を呼ぶ「呼ばい」の字を当てるのがふさわしい。この間、 子どもができることもあったが、そうすればたいていは結婚することになった。

このように、グループ交際で知り合い、「でき婚」で一緒になるというのが、かつての民俗社会の慣わしだったのである。ただ、娘遊びは自由恋愛というようなものではなく、若者たちによって管理された恋愛慣行であり、ナジミの相手をとったりすることは厳しく戒められ、二股をかけるような行為に対しては、若者組からの制裁が加えられた。

娘遊びの慣行は、若者宿を有していた地域では特に遅くまで残り、報告者が調査をおこなった ところでは、愛知三島や三重県志摩地方をあげることができる。これに対し、農村部では早くに衰退したところとそうでないところがあり、一定の地域性が見られる。尾張西部地域を例にとれ ば、機業や商品作物栽培が盛んな北部では早くに衰退し、水田単作で小作農が多かった南部では遅くまで残っていた。また、娘に夜なべ仕事の内職があったところでも娘遊びは盛んだった。

恋愛がもとで結婚していた時代は離婚も多かったが、それによってお互いが不利になることは なく、再婚も容易であったとされる。ただ、子どもが生まれて後の離婚ははばかられていた。

●家制度の法的確立と見合への変化

家の継承を第一に考える家制度は、従来は武士や大店など一部の者に限られて存在していたものであったが、1898年に公布・施行された明治民法は、それを広く国民全体に拡大させる役割を果たした。この法律で、戸主は家族の居所を指定し、結婚の同意権を持つこととなり、一方で妻は法律上は無能力者とされ、借財や財産の売買、贈与などには夫の許可が必要となり、妻の財産は夫が管理することとされた。この民法の施行によって生じた大きな変化は離婚率の低下である。この法律で、女子は決定的に離婚が不利となったし、家の継承のためには離婚がはばかられるようになったためである。したがって、結婚はやり直しのきかないものとなり、一度嫁いだ女子は、主婦の座を獲得するまでは婚家で「耐える嫁」を演じる必要が出てきた。こうして結婚がやり直しのできないものとなる と、親が結婚に介入するようになり、恋愛結婚は廃れてゆくことになる。娘遊びを警戒するようになった親たちに対し、若者は抵抗を試みたものの、やがては恋愛自体が忌避される風潮が作られていった。

結婚相手を親が見つけてくるようになると、結婚相手に求められる条件も変化していった。個人的な好悪は二の次となり、女子に対しては、家の維持に直結する従順な働き者であることが求 められ、男子に対しては、シャモジ(家計)を譲られるまでの間、その家で嫁が耐える必要から、 嫁いだ娘が将来的に財産を得られたり、平坦地の家で働くのが楽で食料が豊富など、嫁としての生活条件のよさが問題とされていった。こうして、女子は上昇婚を志向し、一方通行的な嫁の流れができてゆく。

恋愛結婚が廃れたことで、一般化したのは見合と仲人である。仲人には後見役となる親方型、 相談役となる親戚型などいろいろなタイプがあるが、ここで重要となったのは半職業的に相手を紹介する仲介者型の仲人であり、こうした人に依頼をすれば、どんな者にとっても釣り合う相手を探してきてくれたという。紹介された相手の良し悪しを確認するためには聞き合わせがおこなわれ、それでよければ見合となった。ただ、見合はあくまでも形式的なものであり、結婚自体は親が決めてしまい、本人の意向はまったく無視されていた。

家制度確立以前の嫁の地位は、嫁いだ後、婚家で主婦の座を獲得するまでの間は婚家と実家に両属するものだったと考えられる。これが明治民法により、嫁ぐと同時に夫の家に入ることとされたのだが、民俗慣行の中には、両属関係を継承するものもある。例えばカヨイ婚は、結婚後も妻が実家に居住し、夜だけ夫が妻のもとに通う形態で、妻の居場所は実家に置かれる。愛知県篠島では、カヨイ婚をおこなう理由として、離島ゆえの住宅事情の悪さを指摘し、妻が婚家に住むことで生じる嫁姑のトラブルを避けるためと説明している。ここでは、妻は子どもが生まれ、親世代がいなくなってから婚家に住めばよいとされ、夫や婚家のための家事をすることもない。また、北陸を中心に、冬季の農閑期、嫁が子どもを連れて長期にわたって実家に里帰りをするセンタク帰りの習慣が見られたが、これも雪で閉じ込められている期間、家の中で嫁姑が角付き合わせていることの気まずさを防ぐためと説明される。嫁が実家に帰れば、嫁いだ娘が帰ってきて親子水入らずの状況が作られる。こうした婚家と実家に両属する嫁は、耐えることを強いられない嫁である。一度形成された慣行はすぐには消滅しないのであり、カヨイ婚もセンタク帰りも家制度に抗う知恵として機能したと言える。

●家制度の解体と恋愛への回帰

第二次大戦後、日本国憲法第24条によって家制度は解体され、結婚は両性の合意のみで成立することになった。親が介入する可能性のある見合は廃れてゆき、今や恋愛結婚が当たり前の時代である。しかし、家制度下で形成された女子の上昇婚志向は根強く残っている。このことが、若者の非正規雇用が拡大する中、結婚相手の男子を厳しく選別することにつながり、晩婚化を引き起こしているという指摘もある。やはり、一度形成された慣行は容易には消滅しないのであろう。カヨイ婚やセンタク帰りのように、家制度の呪縛から自由になる知恵が求められている。
臨時法制審議会改正要綱における出会いと婚姻

 蓑輪明子(名城大学)

〈報告の骨子〉

⑴ 臨時法制審議会と改正要綱(民法改正構想)の性格

⑵ 出会いと婚姻をめぐる改正構想

⑶ 結論―改正要綱の歴史的意味

本報告の課題は、臨時法制審議会の民法改正要綱(以下、改正要綱)が出された時代状況、改正要綱の 内容的特徴をおさえたうえで、特に「出会い」「婚姻」に関する法制度の改正構想を、改正要綱の「家」 制度強化論としての側面から考察し、その歴史的意味を考えることにある。

臨時法制審議会とは、1919 年 7 月に設置された内閣総理大臣の諮問機関であり、法律諸制度の体系的 な改正を検討する機関である。この審議会の設置にあたって、審議会に諮問する法としてまず念頭にあったものの一つが民法改正であった。この機関が発足後すぐに、「政府ハ民法ノ規定中我邦古来ノ淳風美俗ニ副ハサルモノアリト認ム之カ改正ノ要綱如何」との諮問第一号が出され、その後の議論を経て、戦前唯一の体系的な民法改正構想である、いわゆる改正要綱(1921 年、1925 年、1927 年)が出された。

審議会が設置された時期は、日本社会にとって変動期であり、「家」や家族のあり方も変容を遂げた時期であった。この時期に先立って、近代化に伴う個人主義的が浸透し、諸個人が「家」との葛藤を高めており、さらに第一次世界大戦による高度成長と産業化は、都市の膨張による都市家族の増大、都市と農村とを問わない家族の形態や関係の変化をもたらしたのもよく知られるところである。臨時法制審議会は そうした中で設置され、民法改正を構想したのであり、これらの現実にいかに向き合うかが問われたのである。本シンポジウムで、「出会い」と「婚姻」というテーマが設定されたのには、グローバル化という大きな社会変動に直面する中で、現代の出会いと婚姻の実相を改めて把握し直そうとする問題意識があるように思われる。この時期の日本も同様に大きな社会変動に直面しており、それにいかに家族法が 対応するかを検討したのであり、そのアイディアの一つが改正要綱であったのである。その内容は、本報 告で明らかにする通り、「家」制度を存置しつつ、現実に合わせて修正し、そのことを通じて「家」を強化するものであったが、その試みが何を目指していたのか、改正要綱とは何だったのかを考えることは、現代にも一定の示唆を与えてくれるように思われる。本報告で明治民法の改正案を扱う意図はこの点にある。

この時期には、先にあげたような家族の実態的な変化、家族意識の変化に加えて、第一次世界大戦中の経済成長に伴い生起した労働問題や小作争議などの社会問題を、地主や経営者を含む道徳―そのひとつに家族制度的な道徳がある―の弛緩の結果として捉え、家族制度の再建を求める主張も台頭していた。こうした主張の台頭に応えることが臨時法制審議会が設置された動機の一つだっただけに、後に出された改正要綱は、「家」の単位と秩序を維持しつつ、「家」の秩序に由来する権利(家族に対する戸主 / 子 に対する親の権利)の強化も図る改正案となったが、それと同時に、当時、現実に生じていた家族関係の変化—単婚小家族化の流れに対応する志向も含んだ内容となっている。例えば、戸籍上の「家」を現実の家族生活と一致させるための分家の容易化や「家」の秩序に基づいて権利を制限されている家族員の「権利」に配慮した改正(戸主に対する家族 / 夫に対する妻 / 親に対する子 / 男子に対する女子 の「権利」)がそれである。こうした改正要綱は、先行研究において、対立した二つの要素を持っていると捉えられてきたが、全体としては、単婚小家族化、個人主義化の流れをとりこんだ「家」の再建論であ った。つまり、「家」の単位や家族関係に修正を加えつつ、多様化する家族をも「家」として位置づけることで、「家」を強化しようとする構想である。戦後民法が単婚小家族、個人主義への志向を徹底させ、「家」制度の廃止して、単婚小家族単位に一本化して家族を把握したのと対比すれば、改正要綱の特徴は 理解しやすいであろう。
さて、改正要綱においては、「出会い」、「婚姻」に関する規定も、こうした流れの中で改正の対象となっている。審議会において最も議論が白熱したテーマの一つが、婚姻手続きにおける当事者の意思と戸主・親の意思の扱い、およびその調整をめぐる議論である。周知の通り、明治民法において、婚姻には戸主の同意が必要であり、男子 30 歳、女子 25 歳未満の婚姻には親の同意も必要とした。しかし、戸主と父母の同意要件は必ずしも強いものではなく、伝統的な家族制度を重んじる一部の論者からは明治民法の家族制度軽視の象徴的な規定だとして、強い批判の対象となった。逆に単婚小家族化への対応を重視する論者は、婚姻における戸主および親の同意権こそが家族を不安定化させるものであり、完全にこれを撤廃すべきだとして、強く批判したのである。結果として、改正要綱では、すべての婚姻において戸主 と親の同意を要件としたものの、戸主や親は婚姻を不当に拒むことができず、しかも、その同意がなくとも、婚姻それ自体は認められる途を開くという改正案を描いたのである。この改正案は、「出会い」とその帰結としての「婚姻」過程の多様化を制限付きながら容認したものといえよう。この時期には不倫の末の心中事件や結婚を「家」に認められないことに反発したかけおち事件が多発したが、「家」の論理の強 化を志向する者の中でも、この状況を放置すれば「家」への疑いを惹起し、「家」への反発や崩れにつながりかねないとされたのである。

また、多様化する出会いとその帰結としての婚姻の容認という論点に関わっては、改正要綱における非嫡出子の位置の変化にも注意を払う必要がある。そもそも多くの近代民法が非嫡出子に対する差別を行ってきたのとはやや異なって、明治民法は「家」を維持する観点から非嫡出子に対して、一定の地位を与えてきた。戸主の非嫡出子の入家、戸主の妻と非嫡出子の親子関係の成立、家督相続順位における非嫡出子男子を嫡出女子に優先させる規定である。しかし、改正要綱では、妻の地位に対して配慮を行うべきとして、嫡出子の入家の際の、戸主の妻の同意権を創設すること、家督相続順位における嫡出子優先の徹底という改正が構想されたのである。また、改正要綱が重婚禁止を徹底させる規定を盛り込んだのも、非 嫡出子の地位の変化と同一の方向性を持つものである。すなわち、単婚小家族の婚姻関係を重視した結果、婚外であるかどうかによって、親子関係を序列化する方向が打ち出されたのである。

さらに、改正要綱では、儀式婚を法律婚として認める改正が提案されている。臨時法制審議会設置に先立つ 1915 年に出された「婚姻予約有効判決」は、農村における内縁関係を婚姻予約することで法的に保護するものであったが、要綱における儀式婚主義の提案は、農村における内縁関係を婚姻予約ではなく、 婚姻として扱って、法的保護を行うねらいをもったものであった。さらに都市部の下層社会でも内縁関係の家族が存在しており、改正要綱は都市農村を問わず、現に存在し、今後増加の兆しを見せる多様な婚姻過程の一部を、法律婚として把握しようとするものだったといえる。

以上のように、改正要綱は「家」という枠組を存置しつつ、社会変動の中で変化する家族関係、家族形態に対応し、「家」を単婚小家族の持つ論理へと修正した。加えて、さらに多様化しつつある出会いと婚姻を容認しつつ、それらをも「家」として把握しようという試みであったともいえる。そしてここで構想されていたのは、現代的に修正された「家」であった。

民法改正の歴史を振り返るならば、社会変動に「家」制度の廃止という形でもっともラジカルに対応したのが戦後改革における民法改正である。臨時法制審議会の「家」制度改革は、戦後改革の民法改正との対比で見れば、微温なものという評価は免れ得ないが、改正要綱は既存の家族モデルを存置しつつ、社会変動に対応しようとする、戦後改革とは別のタイプの民法改正構想であったと評価できるのではないだろうか。

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