杉田菜穂「戦前日本の人口政策――質と量への関心」

第4報告 「戦前日本の人口政策――質と量への関心」

杉田 菜穂(大阪市立大学)

戦前の日本における人口論は、国際的潮流の強い影響を受けて形成された。20世紀はじめに各国からの出席を得て1912年に第1回(イギリス)、1921年に第2回(イギリス)、1932年に第3回(アメリカ)の国際優生学会議が開催され、1927年にはサンガーの資金提供によって世界人口会議(スイス)、1931年には国際人口会議(イタリア)が開催された。当時の国際人口論壇の主流は優生学(優種学、人種改良学、また人種改造学とも訳された)であり、人口の質への関心が高まりをみせていた。これらの会議を通じて、遺伝的素因と環境的要因の改善による社会の進歩(劣った者を減らし、優れた者を多くすること)を目指す考え方が各国に浸透していったのである。日本もその影響を受けて、健康の増進に関わる結核予防法、トラホーム予防法(以上、1919年)、花柳病予防法(1927年)、癩予防法(1931年)や次代の国民の質に関わる児童虐待防止法、少年教護法(以上、1933年)といった人口の質に関わる政策が生まれた。

人口の質への関心は、経済学との関わりで展開されてきた従来の人口論の射程を押し広げることになった。マルサスは『人口論』(初版、1798年)において、「食糧は人間の生存にとって不可欠」「男女間の性欲は必然であって現状のまま将来も存続する」という二つの法則を前提に、人口の量の過剰に起因する貧困問題をクローズアップした。一方、マルサスの影響を受けたとされるダーウィンは、「環境に合うものが生き残る」という生物の進化に関する理論を展開した。そこから「人間社会も進化する」という発想が生まれ、人口の質への関心へとつながった。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ゴルトン(優生学)、リチャーズ(優境学)、スペンサー(社会進化論)たちが、人口の質をめぐる政策論議に火をつけたのである。

日本においては、人口学説の展開が1910年代から20年代にかけて圧縮的に受容された。1916年には「乳児・幼児・学齢児童及青年」「結核」「花柳病」「癩」「精神病」「衣食住」「農村衛生状態」「統計」を調査課題とする保健衛生調査会(1939年の国民体力審議会設置に伴い廃止)が設置され、1927~1930年には食料部と人口部で組織された人口食糧問題調査会が設置され、1933年には「商工業」「農業」「失業」「移民」「優生」を調査研究課題とする人口問題研究会が設置された。これらに関わった学者と内務官僚を中心に、人口の質と量をめぐる政策課題について議論が深められた。当時は、経済社会問題を含む幅広い政策課題が人口政策の名のもとに論じられていたのである。

戦前の日本は西欧先進諸国と比して死亡率、出生率ともに高く、過剰人口論が主流であったが、全体としてみれば戦前日本の人口政策は人口の質と量の両面における増強を志向していた。人口の質と量は民族の問題としても捉えられ、移民問題をめぐる緊張の高まりを機にその傾向が強まっていった。