太田素子「近世西南の人口政策──子返しと捨子・その背景と施策」

第3報告 「近世西南の人口政策──子返しと捨子・その背景と施策」

太田 素子(和光大学)

かつて人口史家関山直太郎は「東国には堕胎間引き、関西を中心として西国では捨子」と指摘して、堕胎や嬰児殺しが北関東から東北地方の人口コントロールに特有であることと、西国には捨子の習俗が支配的であることを指摘していた。実証的な研究の進展の中で、二つの習俗は全国的に見られるものの確かに主導的な傾向には東の子返し、西の捨子といった傾向が明らかになっている。筆者は、子返しが家を守る為の出生コントロールの性格を有していたのに対して、捨子のほうは背後にむしろ家の崩壊が起こっていたのではないかと考えている。
「子返し」に関する筆者らの研究は、地方文書や日記、地方在住の知識人の伝聞記録のレベルでこの習俗を捉えようとするところに特色があった。主に、子ども観や子育て意識を究明することに研究の眼目があったが、そのなかで人口政策に関しては以下のような点を明らかにした(太田編1997)。
各地の施策は、①教諭書の配付や寺院、時には巫女までも動員した子返し禁止の教諭活動、②懐妊調査と流産死産の検分など出産管理、③子育て講の組織化と養育料(金銭、米)の支給、④嬰児殺しや堕胎に対する禁令と処罰、⑤収容施設による養育事業と自立支援などから成り立っている。このうち⑤については大高善兵衛・平山仁兵衛兄弟の養育事業や僧侶による非組織的な事例が僅かにあるだけで、為政者の関与は明治以降に課題がのこされたことなどである。
子返しと比較して検討すべき、もう一つ重要な課題に、近世社会に多くの史料が遺されている捨子の問題がある。沢山美果子(2005,2008)、三木えり子(2003)ら、近世後期の瀬戸内地方をフィールドにした捨子研究は育てられることを期待した捨子であったこと、また捨子養育の仕組みが既に藩や共同体によって形成されていたという。三木が分析した102件の捨子記録,岡山と津山藩領内を対象とした沢山の捨子研究は、すべて19世紀に入ってからの記録である。また捨子の原因は貧困というよりは、母親の離別,父親の離別,両親の離別および、乳不足にあるという。筆者が播州日飼村の宗門改帳を検討した際には,単身者の多さと晩婚化に注目した。また貰子の記録のなかでは非嫡出子が目立つことについてふれた(太田2007)。それらの事実は東北農村と異なり、19世紀のこの地域の家族の脆さが注目されるように考えさせられたのである。
報告では、山口県文書館に残された萩藩の記録を紹介して、流動的な家族の状況と捨て子の関係を検討する。