【シンポジウム趣旨】帝国日本における子どもの保護―家族をめぐる帝国の秩序

【シンポジウム趣旨】帝国日本における子どもの保護―家族をめぐる帝国の秩序

田中友佳子(芝浦工業大学)
本企画では、帝国日本において、保護すべき子どもを契機として家族にいかなる介入がなされ、帝国秩序の形成や維持とどのように関わっていたかを考察する。
19世紀末以降、帝国日本の拡大に伴い、孤児、浮浪児、不良児、貧困児に対する保護事業が、帝国「外地」とその周辺でも実施されはじめた。政治・社会体制の変化、貧困、疾病や戦争、災害などにより発生した保護されるべき子どもをどうするかは、一国・地域だけでなく、帝国秩序を維持し強化するための課題となっていた。また、子どもの保護は、植民地からの解放や独立を維持しようとする民族の問題としても重要であった。
近代以前の子どもの保護に目を向けると、清代中国には善堂とよばれる慈善組織が各地に作られ、その多くが子どもの保護に関わっていた。植民地化前後に廃絶された台湾と異なり、中国大陸では中華人民共和国の樹立まで継続した善堂も存在した。それらは清代の善堂を受け継ぎつつも、帝国日本から近代教育やジェンダー規範などが流入し、「伝統」を変容させていった。満洲においては、善堂の「伝統」を基盤にしながらも、移民した女性や家族の状況に合わせて独自の児童保護が展開された。
子どもの保護には、私設団体や個人が深く関わっており、帝国拡大の尖兵としての役割も果たした。日本の「外地」とその周辺において、飢饉などによる被災児童が発生すると、帝国日本の女性たちは帝国の「母」となって救済しようとした。また、子どもの保護は、家族を介して秩序維持を行う装置でもある。「不良少年」の何が問題で、誰が「不良少年」を保護すべきなのかが法令で定められ、実際の家族による保護や感化院入院の過程を通じて秩序維持の装置が形成されていった。恩賜金が使われた児童保護事業では、慈恵溢れる「父」としての天皇も強調された。児童保護は帝国拡大の一つの契機であり、父母による子の保護・救済という論理によって帝国の秩序を生み出そうとするものであった。このように家族に働きかけ、介入する子どもの保護は、日本「外地」とその周辺の家族観や子ども観、そして実際の養育にも影響を与えた。
最後に、帝国秩序は帝国日本の中だけで形成されるのではない。近年では2つの帝国の狭間や、帝国を超える繋がりを研究対象とする「トランスインペリアル・ヒストリー」が注目されており、帝国日本の子どもの保護をもう一つの帝国であるアメリカとの関係から捉えてみたい。
本企画では、日本「内地」、朝鮮、満洲、中国関内、ハワイなど、帝国日本とその周辺を対象とし、子どもの保護を帝国史の視点から考察する。子どもの保護を通じて、帝国の中心と周縁の創出、民族の同化と差異化、そして家族への介入による秩序強化がいかになされたのか、コメンテーターやフロアの皆様と共に議論を深めていきたい。

*基盤研究(B)、課題番号:25K00721、研究年度:2025~29年度、代表:田中友佳子

【報告1】
近代中国の子どもの保護と善堂の変容
王星星(清華大学)
本報告では、近代中国における子どもの保護の「伝統」を捉えるとともに、善堂の変容について中国関内の事例から論じる。梁其姿(2001)『施善与教化:明清的慈善組織』河北教育出版社に掲載されたデータと、天津広仁堂の事例に基づき、子どもの保護に関わる善堂の位置付けとその変容を検討する。
まずは、明清中国の善堂における時間的・空間的分布と、子どもの保護に関わる善堂の全体像と位置付けについて、梁其姿(2001)の付録から分析してみる。清代において、内陸部18省の善堂数は2116箇所に達した。子どもの保護と関わる育嬰堂、清節堂、総合善堂の3種類は合わせて72.2%を占め、圧倒的比重を占めていたことは明らかである。育嬰堂は孤児(乳幼児)のみを収容する直接保護を行い、清節堂は寡婦の収容を通じた子どもの間接保護・母子保護を行っていた。清末には、複数の機能を有する総合善堂が、民間エリートを主導とする形で勃興しており、1878年創設の天津広仁堂はその範型といえる。
伝統的善堂がどのような場だったのか、天津広仁堂を例に見てみたい。同堂の設立当初は、敬節所・慈幼所・蒙養所・力田所・工芸所の五部で成り立っていた。また、敬節所は貞節を守る寡婦とその子女を収容し、慈幼所は父母のない孤児男児を収容していた。蒙養所は経典を、力田所と工芸所等は農工の技を伝える場であった。そして収容と教化・職業訓練を併せて行い、「男女有別」に基づいて女児を正規教育から排除した。このように天津広仁堂は、保護と統制が併存するという特徴を有した。
総合善堂である天津広仁堂は、清末以降、徐々に変容していく。清末新政期の1905年、日本を模す形で、女子が働く工場と幼稚園が堂内に新設された。堂内の女性は教育を受けて就労することにより自活可能になったものの、その人身の自由は同堂によって厳しく制約されていた。彼女たちは自由労働者ではなく、同堂に管理される働き手だったのである。また、幼稚園では男女が一緒に学ぶようになり、識字・算数・唱歌等の科目を教え、「児童の天性」の啓発と養護を行うように変化した。このように、清代の善堂という「伝統」は、帝国日本から近代教育やジェンダー規範が流入するなかで、その性格を変容させていった。

【報告2】
「母」としての中国人児童救済―東洋婦人会栗塚龍子と華北大飢饉
小笠原強(専修大学)
本報告は東洋婦人会会員栗塚龍子による華北大飢饉下での中国人児童救済について、栗塚や東洋婦人会の活動を中心に考察を試みるものである。
華北大飢饉とは1920年から翌21年にかけて中国・華北地域で発生した災害であり、中国国内外の民間組織による救済活動が展開され、日本からも支援の手が差し伸べられた。
日本から支援に当たった組織の一つに東洋婦人会がある。上流婦人を主な会員として組織された同会は1904年に東洋諸国の女性の「教育」や「親善」を図る目的で発足し、「良妻賢母」を思想基盤とする組織であった。華北大飢饉の際には23名の被災した中国人児童を日本へ引き受けて、帰国後、自身で生計が立てられるように、商店や工場などの奉公先で職業訓練させるという特殊な児童保護を実施した。
その児童保護の中心となった人物が栗塚龍子(1858〜1923)であった。同会理事を務めていた栗塚は横浜の商家で生まれ、ミッションスクールに通い、アメリカへの留学経験を有していた。流暢に英語が話せるだけではなく、自身がアメリカで目にした「男女同権」や夫婦の共働き、とりわけ働くことを積極的に主張する「西洋的夫人」と称された人物であった。明治・大正期の社会において、先進的な価値観を持つ人物であった一方で、東洋婦人会以外に軍事援護や社会事業を展開した愛国婦人会、日露戦争時には軍人遺児遺族保護会などに積極的に参加して国家への奉仕を主張する姿勢も示していた。
栗塚の「西洋的夫人」と称された姿と東洋婦人会などで見られた姿は、華北大飢饉下での児童保護における言説からも確認できる。「哀れ」な存在である被災児童たちに職業、教育を与えて、国家に奉仕する国民に育て上げることを目標と掲げ、まさに栗塚や東洋婦人会を被災児童の「母」と設定した上で事業は推し進められていったのであった。

【報告3】
満洲における児童保護の展開―満洲に渡る女性、保護される子ども
大石茜(松山大学)
本発表では、帝国日本において満洲という地域が纏った意味を踏まえ、満洲において日本人の児童保護の必要性がどのように浮上したのかを検討する。満洲では、関東州及び鉄道附属地を中心に日本人の植民がはじまって以来、南満洲鉄道株式会社(満鉄)を中心に、当初より幼児教育や初等教育の整備等が積極的に実施されたが、本シンポジウムで扱うような児童保護に関する領域は遅れをとった。また、満洲で最も児童保護が必要とされた時期は、敗戦前後から引揚げの時期であり、帝国の崩壊に伴う大きな社会変動のなかで、多くの子どもが「孤児」となった。帝国崩壊前の満洲での児童保護は、そのような帝国の崩壊時に喫緊の課題となった児童保護の前史でもある。
満洲において、のちに児童保護施設へと展開することになる救世軍の事業は、女性保護からはじまっている。本人の意思とは異なるかたちで「からゆきさん」等として渡満した女性たちの救済からはじまり、母子保護や児童保護へと展開していった。また、篤志家等によって児童保護事業が展開するきっかけとして、妻を失った夫(父親)への育児支援の必要性が唱えられていた点が、特徴的である。満洲では内地に比べ、女性が自立して働ける近代的な職業が多かった。女性をめぐる職業状況や家族規範をめぐる意識が内地と大きく異なっていたことが背景にあると考えられる。
また満洲には、中国の善堂の流れを汲み、中国人によって運営されている中国人向けの児童保護事業も存在する。よく知られているものとして、奉天の同善堂があげられる。「赤ちゃんポスト」に該当するような児童保護の仕組みを備えており、当時の日本人からも着目されていた。一般的に中国人向けの事業と考えられているが、同善堂で保護されていた日本人男児の引揚げの記録が見つかり、日本人社会との接点が着目される。
本発表ではこのような複数の事例を検討しながら、内地とは異なる、また植民地台湾や朝鮮とも異なる、満洲という特異な地域における児童保護の変遷を考えていきたい。

【報告4】
「不良」な子どもたちを「保護」するのは誰か―永興学校への入院過程を手がかりに
魯洙彬(国士舘大学)
本報告は、永興学校に「入院すべき児童」を定めた朝鮮感化令第一条に着目し、植民地朝鮮(以下、朝鮮)において、どのような子どもたちが、どのような過程を経て感化院に収容されたのかを検討する。
永興学校は、1923年の朝鮮感化令施行に伴って設立された朝鮮初の官立感化院であり、朝鮮における感化事業の中心的機関であった。朝鮮感化令によれば、永興学校には、「行政庁」の具申と、「親権者又は後見人」による入院請願という二つの経路を通じて把握された「不良少年」のうち、朝鮮総督によって「入院」の必要性を認められた子どもたちが収容された。永興学校は、「不良行為」を行い、またはその恐れがあり、かつ「適当」な保護者を欠くとみなされた院児の「親代わり」となって、子どもたちを「自立自営の良民」(ひいては「忠良なる臣民」)に育て、社会へ送り出すことを目的としていた。
院児の入院経緯は、部分的かつ不均質なものでありながらも、朝鮮において不良児の「感化」が、子ども保護の一つのあり方として位置づけられていたことを示す。この意味で、浮浪児・不良児を感化する永興学校は、社会統制と社会救済の機能が矛盾せずに併存する空間として、家族による保護を「代替」または「補完」しながら、子どもの生存と養育に関する社会秩序を支えていたといえる。
そこで本報告では、感化院をめぐる知識・情報の流通や家族外部からの働きかけが、児童の入院判断に与えた影響、さらにその過程における「行政庁」と「保護者」の相互関係を検討し、朝鮮感化令の運用像を具体化する。これを通じて子ども保護の担い手はどのように形成・編成され、また、そのなかで「社会」が家族と植民地統治権力の間を媒介する領域としてどのように立ち現れていたのかを考察する。

【報告5】
帝国の狭間での児童保護の受容と再編―ハワイの日系児童保護に焦点を当てて
大森万理子(名古屋大学)
本報告では、20世紀転換期以降ハワイにおいて活動した社会事業家奥村多喜衛と宗えい子による児童保護事業に着目し、児童保護によるアメリカの統治様式が、いかに受容・再編されたかを解明する。具体的な検討対象とするのは、奥村多喜衛によって開設された奥村ホームと、宗えい子によって始められたHome for Neglected Children(HNC)である。トランスインペリアル・ヒストリーの視座に立ち、日本とアメリカという二つの帝国の狭間で展開された活動として、ハワイにおける日系児童保護を取り上げることとする。
奥村多喜衛はハワイアン・ボードのもとで伝道活動に従事する一方、1899年に奥村ホームを開設した。同施設は当初、孤児や親による養育が困難な子どもを受け入れ、Japanese Christian Orphanageとも称されたが、1910年代にはこうした児童の受け入れを停止し、性格を転換した。本報告では、この変化にも着目しつつ、キリスト教的な家庭生活を通じた人格形成と「ニュー・アメリカン」の育成という理念が、日米双方の文化をいかに接合したのかを検討する。
宗えい子もまた、ハワイアン・ボードのもとで伝道活動に従事し、1905年にHNCを設立した。HNCが保護の対象としたのは、母の死亡、父の収監、貧困などによって家族による養育が困難とみなされた子どもたちであった。本報告では、こうした子どもを家族から切り離して「保護」する実践が、いかに意義づけられ、成立していたのかを検討する。
児童保護は貧困対策や社会秩序の維持という目的を有していたが、これは帝国が重視する課題でもあった。つまり、日系児童保護事業は、移民社会の問題を国家に代わって管理する装置であり、帝国の統治を補完する役割を果たしていたと考えられる。本報告では、日本帝国の影響下にある移民社会において、アメリカの帝国的統治を内面化し、それを再生産する装置として児童保護実践がいかに機能したかを論じる。

【シンポジウム報告者】
王 星星(おう せいせい):中国・清華大学公共管理学院次席研究員 社会史・フィランソロピー研究
大石 茜(おおいし あかね)松山大学人文学部社会学科准教授 歴史社会学
大森 万理子(おおもり まりこ):名古屋大学教育発達科学研究科准教授 教育社会史
小笠原 強(おがさわら つよし):専修大学兼任講師 アジア近現代史
魯 洙彬(の すびん):国士舘大学非常勤講師 朝鮮近代史・社会史

【コメンテーター】
土屋 敦(つちや あつし):関西大学社会学部教授 家族社会学・子ども社会学

【司会者】
田中 友佳子(たなか ゆかこ):芝浦工業大学准教授 児童福祉史