第10報告 李 璟媛(岡山大学)
「1960年代以降の韓国における子どもの教育と家族政策」
本報告では、男児選好思想、産児制限、出生性比の不均衡、子どもの少人数化、教育の大衆化と格差などをキーワードに、1960年代以降の韓国における子どもの教育をめぐる変化を家族政策とのかかわりから分析するとともに、今日的課題を考える。まずは、韓国における子どもをめぐるさまざまな変化について、子どもの出産の動向と出産に関連する家族政策の変化を踏まえて分析する。次いで、子どもの教育をめぐる変化について、教育等関連法制度と統計を中心に確認する。最後に、これらの分析を踏まえながら、子どもの教育と家族政策の関連と、これらの連鎖としてもたらされている今日的課題を考えたい。
韓国では、1950年代以降急激に増加した人口問題の解決方法として「家族計画」を国策として採択、1962年から実施した。1960年代以降に大韓家族計画協会で提示した標語をみると、「たくさん産んで苦労しないで、少なく産んでよく育てよう」「やたらに生んだ子ども乞食になりかねない」(60年代)、「娘・息子区別しないで2人だけ産み、よく育てよう」(70年代)、「2人も多い、1人だけ」「1組夫婦子1人、隣人できょうだい」(80年代)などがある。出産を抑制する家族計画政策の結果は、合計特殊出生率の低下という形で現れた(1960年:6.0、70年:4.5、80年:2.8、90年:1.57)。1960年代から実施された出産抑制家族計画政策は、一定の成果を出した後、1990年代後半に廃止された。その間、男児選好思想が強かった韓国では、出産抑制政策の結果として、男児を選んで出産する傾向が強まり、出生性比不均衡の問題が深刻な社会問題になった。その弊害を解消すべく、1987年には「医療法」を改正し、「胎児の性鑑別行為等の禁止」条項を新設した。
韓国では、1948年7月17日に制定された「憲法」によって全国民が均等に教育を受ける権利が定められた。さらに、1949年12月31日に公布された「教育法」には、全国民が6年間の初等義務教育を受ける権利が定められ、1950年6月1日から実施することが明記されている。1984年には3年の中等教育義務化が決まり、1985年から僻地を優先して実施され、1994年に郡部まで拡大、2004年には全国で実施するようになった。2015年現在は、9年の義務教育を終えた該当年齢の児童のほとんどが高等学校に進学し、高校生の8割が大学に進学するという教育の大衆化がみられている。
1960年代以降における子どもの教育をめぐる変化については、長男の教育にオールインする家族、教育の大衆化、子どもの教育にオールインする家族、教育の大衆化の中の格差などの言葉で説明することができる。家族計画の成果は、子どもの教育に対する親の意識にも影響を与えている。長男の教育に注がれていた親(と家族)の関心は、子ども、特に娘に向けて高まり、しだいに、教育の大衆化とともに、性別による平等化をもたらしている。その中で、子どもの教育をめぐり、早期教育、早期留学、教育移民、ギロギパパという新たな現象や、教育における新たな格差問題(入試などに関する親の情報収集能力や親のみならず祖父母の経済能力をも含む格差)が生じており、これらは、韓国における新たな社会問題として浮上している。韓国社会における教育の大衆化の中の格差とその課題に関する議論は、すでに始まっているので、引き続き分析を進めたい。
参考文献(韓国語)
教育部、1998、『教育50年史―1948-1998』教育部。
金勝権他編、2000、『韓国家族의 変化와 対応方案』韓国保健社会研究院。
第11報告 小山 静子(京都大学)
「「作るもの」「育てるもの」としての「よい」子ども――「健全育成」と母子保健法」
1950年代、日本では受胎調節の実施や家族計画の進展によって急速に少産化が進み、子どもは「授かりもの」から「作るもの」へと変化した。そして1960年代に入ると、少産化を背景に、政府の関心は「作るもの」となった子どもをいかに「健全」に育て、「資質」を向上させるのかという問題へと移行していくことになる。本報告では、なぜ「健全育成」が政策課題として浮上したのか、これは何を意味していたのかを、現代の母子保健政策の枠組みを作った母子保健法の成立(1965年8月18日)に焦点を絞って考えていきたい。
1.1960年代前半という時代
家庭という問題領域への国家的関心の高まりについて、文部省や厚生省の動向を中心に概観する。
2.「健全育成」をめぐる厚生省の動向
少産社会の実現による労働力不足への懸念を背景として、限られた人口の資質向上、そのための健全育成が課題として認識されていき、厚生省では中央児童福祉審議会を中心に、要保護児童対策ではなく、一般家庭の児童対策として、幼少人口の健康管理、障害児の早期発見、母性保健対策、健全な家庭づくりなどに関する提言が行われていった。それらの内容がどのようなものであったのかについて明らかにする。
3.母子保健法の制定をめぐる議論
母子保健法は1965年2月に国会に上程されるが、前年より国会では母子保健法の必要性をめぐる議論がはじまり、1964年12月に中央児童福祉審議会母子保健対策部会は、母子保健法に結実する中間報告として「母子保健福祉施策の体系化と積極的な推進について」を提出した。これらの内容や母子保健法をめぐる国会審議のありようを検討することで、母子保健政策がどのようなものとして樹立されたのかを考察する。
第12報告 土屋 敦(徳島大学)
「施設の子どもたちの戦後史――1970-80年代初頭の日本社会に焦点を当てて」
日本社会における子どもの施設養護は、乳児院や児童養護施設といった児童福祉施設を中心に、乳児院は約100施設、児童養護施設は約500施設、約4万人あまりの定員数で、戦後約70年間にわたり維持されてきた。この間、施設養護を受ける子どもの内実は、戦後直後の戦災孤児や浮浪児が主であった時代から、高度経済成長期における親の離婚や蒸発、生活困窮などによる養育困難児が主であった時代、そして1990年代以降は被虐待児を家族から引き剝がしながら保護する時代へと大きく変容を遂げる。また、そうした施設養護を受ける子どもの変容過程においては、特に児童養護の専門家による公的に「保護されるべき子ども」の問題機制の枠組みをめぐる議論が連綿と積み上げられてきた系譜がある。
本発表では、特に1970年代初頭から80年代初頭までの時期に焦点を当て、施設養護の専門家間でなされた議論および子どもの人権運動の軌跡の中で出された主題を分析する中で、同時期が、子どもの施設養護問題における「保護されるべき子ども」の問題機制の枠組みの大掛かりな変容時期に該当していたことを跡付けていくことを目的とする。その際に、日本における子どもの施設養護の運営上主導的立場にあった全国社会福祉協議会養護施設協会(以下、全養協)から発信された機関誌や運動資料を一次資料とするとともに、特に親の実子に対する「親権制限問題」の歴史的系譜を描き出す中から上記の主題を描き出すことを目的とする。
児童養護における「親権制限問題」とは、例えば児童養護施設や里親に対して、実親からの子どもの引き取り要求があった際に、親の意志や親権に抗しても子どもを福祉機関の中で「保護すること」を企図して制定された制度である。この「親権制限問題」をめぐる議論の歴史的系譜を追うことは、施設養護における「保護されるべき子ども」の問題機制の枠組みの変容を跡付ける際に大きな主題となる。