シンポジウム要旨

第1報告 柴田 賢一(尚絅大学短期大学部)

「Government, Education, Instruction――16-17世紀イングランドの家政論における“教育”」

本報告では16-17世紀のヨーロッパで数多く出版され、家族を統治する原理となっていた家政論文献群を手掛かりに、家族の統治(government)と結び付けられ、子どもの統治として位置づけられていた「子どもの教育」という営みを、education、instructionという言葉の分析から明らかにしていく。

ドイツの歴史家オットー・ブルンナーによれば、「オイコスの学としての家政学(エーコノミーク)は、まさに、家における人間活動の総体、「すなわち夫と妻、親と子、家長と僕婢(奴隷)の関係、および、家政と農業において必要とされるもろもろの任務の達成を含むもの」であり、「倫理学、社会学、教育学、医学、それに家政と農業についてのさまざまな技術といった理論の複合体 」とされており、出版された当時において理想とされた家族像や家族についての思想を知る上では好個の史料といえる。

本報告はイングランドにおいて出版された家政論を主たる分析対象に取り上げているが、当時の家政論文献群はその基本的な構造を、古代ギリシアのクセノフォン『家政論』や擬アリストテレス『経済学』から受け継ぎ、主たる著者の多くがピューリタンの説教師であったこともあって、そこにキリスト教の宗教観、倫理観が色濃く織り込まれたものであった。

その基本構造とは、「人」の統治と「物」の統治を主題にすることであり、「人」の統治は、夫―妻、親―子、主人―使用人の3つの関係から成立している。そして親―子関係においては、子どもを育て、教えていくための様々な教訓が織り込まれていたのである。家政論文献群において、これらの営みは主にeducationという言葉で表されていくのだが、その内容はおよそ現代におけるeducationや「教育」という言葉には含まれない、失われた意味が含まれていたことを本報告では明らかにしてく。

一方で、我々が今日「教育」という言葉のもとに想像する、知識などを教え、授けていく営みは、当時の文献では多くの場合instructionという言葉で表されている。本報告ではこのinstructionという言葉にも注目し、instructionの表していた意味や、educationとの関係について明らかにしていく。

最後に、子どもの「教育」が子どもの統治(government)であったことに立ち戻り、家政論におけるeducationとは具体的にどのような営みであり、また家政論における統治とはいかなる目的を有していたのかを考察していくこととする。

 

第2報告 野々村 淑子(九州大学)

「18世紀ロンドンの貧困児救済と家族――無料診療所の設立と医療実践をめぐって」

救貧法とその周囲に存在したフィランソロピの体系のなかで、子どもを対象とした保護救済活動を通じて、家族、親役割の在り方が構築されていく経緯を解明する。D.A.アンドリューによれば、18世紀イギリス社会を席捲したフィランソロピは、国家の富の拡大という目的に貢献すべく、それまでのチャリティの枠組を超えた国家的、社会的な広がりを見せた。なかでも、出産や子育てをテーマとする無料の産院や診療所、孤児院など(医療)救済団体の活動は、それまで看過されがちであった貧困層を含む多くの生を救済、保護の対象とした。イギリス国家を支える人口の数の増加、質の向上によって、文明社会としての秩序を維持しさらなる発展を支えるべく、人々は寄付者に名を連ねたのである(Andrew, Donna T., Philanthropy and Police: London Charity in the Eighteenth Century, Princeton UP, 1989.)。

本報告はロンドン初の乳幼児向けの無料診療所(Dispensary for the Relief of the Infant Poor)を1769年に設立した医師G.アームストロング(Armstrong, George, 1709–1779)ならびに乳幼児も含む一般向けの無料診療所(General Dispensary)をロンドンに設立したJ.C.レットサム(Lettsome, John Coakley, 1744-1815)による医療実践報告、症例報告、医療に関する著作等をもとに貧困児の生とその発見過程に現れた新しい育児の在りよう、知識とそれを支える組織や関係を解明する。

無料診療所は、医者による健康指南書と共働しながら、しかしそれとは別経由で、医者に通い、医者による治療を前提とする「患者」を形成する契機となったといわれる。すなわち、無料診療所は、医者に行く前に、医者の助言により病気を予防するという行動様式をも含んで、貧困層の習慣を形成していった。貧困地域に蔓延している伝染病の問題に予防をもって対処する、いわば後の公衆衛生の先駆的形態である。両診療所共に、医者自らが貧困地域に出向き、助言と処方を与えながら、医者の指示による治癒を強調し、診療所への通所を促している。無料診療所の成立過程、組織や運営などと共に、訪問記録、と症例報告を兼ねた著作から、彼らの医療実践と共に、治療対象の貧困家族の関係性や役割などを浮かびあがらせてみたい。

 

第3報告 山本 敏子(駒澤大学)

「「水上生活者」の家族と子どもの教育――1910-30年代の東京の河川・運河を舞台に」

近代日本社会において、陸(おか)に住居を持たず、家族で船上生活を送った人びとがいた。一つは瀬戸内海や九州東海岸・西海岸等で一定の海域を絶えず移動しながら暮らしていた「家船(えぶね)」の漁業者であり、もう一つは大都市の河川や港湾で主に艀業に従事していた「水上生活者」である。

本発表では、江戸時代から水上交通で栄えた水の都東京の河川・運河に近代化の過程で現れた「水上生活者」を取り上げ、その来歴と家族の生活、社会事業の展開を契機とする子どもの教育の変容について明らかにすることを課題としたい。

論点は、以下の通りである。

(1) 日清・日露戦争期に出現し、東京オリンピックに相前後して消滅したと言われる「水上生活者」は、どのような過程を経て東京の河川・運河に登場し、その家族生活とはいかようなものであったのか。その出自の一つである利根川高瀬船を事例に、近代化に伴う船頭家族の歩みについて検討する。

(2) 東京の「水上生活者」は、1920-30年代に社会問題化され、社会政策の対象として注目された。「水上生活者」に向けられた社会事業家の眼差しとは、いかなる性格を有するものだったのか。東京市の社会事業調査を中心的に担った草間八十雄の「水上生活者」に関する調査報告を主な資料に検討する。

(3) 「水上生活者」に対する社会事業は、不就学児童問題の解決を目指して展開する。誰によって、どういった事業が行われ、1930年9月の私立東京水上尋常小学校設立を迎えるのか。「水上生活者」の子どもの教育は、いかに変容していくのか。同校に関する刊行物や関係者の論説等を手掛かりに検討する。

東京の「水上生活者」が激増した大正・昭和初期は、新中間層にまで浸透した日本の近代家族が成熟期を迎え、現代庶民生活の原型が形づくられた時期でもある。こうした近代家族の形成との関わりで、「水上生活者」の家族と子どもの教育について考察を試みたい。

 

第4報告 吉長 真子(福山市立大学)

「1930-40年代の日本における産育文化の変容――妊産婦・乳幼児保護事業推進の論理を中心に」

近代日本の出産、子育てのありようは、家族や共同体の中で伝承されてきた習俗的な営みから、教育・医療・社会事業等の専門家や有資格者の指導や介助を受けて行われる「教育的」「科学的」「衛生的」「合理的」なものへと大きく変容した。ただしその変容は全国均一に短期間に起こったのではなく、地域によってあるいは階層によって差異を伴いながら、戦後の高度経済成長期まで時間をかけて進行した。この変容過程は民俗的な産育文化の多くを失わせたが、他方で妊産婦・乳幼児死亡率の減少、就学率の上昇をもたらし、母性保護や児童保護の制度や施策を生み出した。すなわち産育文化の変容は社会の大きな変動と結びついて起こったのであり、それは出産や子育ての単なる方式の変化にとどまらず、子どもの生命に対する感覚や子どもの成長発達についての意識、そして女性の社会的位置づけをも大きく変化させた。

したがってこの産育文化の変容過程を明らかにすることは、教育史・家族史における重要な課題であるといえる。特に農村(農山漁村)の産育は、1930年代から敗戦に至る時期、集中的に妊産婦・乳幼児保護の施策の対象とされ、その事業は保健・医療、社会事業、保育・教育の領域にまたがるものであった。しかしこの時期の農村における産育が、「産育習俗」の世界から、妊産婦・乳幼児保護事業によって「科学的」「合理的」「衛生的」「教育的」なものへと変化していく事態、或いは農村の産育について新たに「隣保相扶」の精神が強調されねばならない事態など、戦時下農村において産育をめぐってどのような動きがあったのかは、十分に明らかにされていない。

そこで本報告では、1930-40年代に民俗学及び母子保健・乳幼児死亡に関わる各種調査や妊産婦・乳幼児保護事業、女性を対象にした社会教育事業等を全国規模で行った恩賜財団愛育会に着目し、愛育会が行った事業の分析を通して、この時期の妊産婦・乳幼児保護事業推進の論理がどのように構成されていたのかを検証する。

 

第5報告 広井 多鶴子(実践女子大学)

「近代の親子関係規範の成立と親子問題」

今日の最も重大な「親子問題」と言えば、児童虐待ではないかと思われる。1990年代以降、児童虐待が大きな社会問題となり、2000年に児童虐待防止法が制定される。以来、児童虐待は、核家族化、都市化による家族の孤立や育児不安、未熟な親の増加など、多くの場合「近代家族」に内在する家族の病理として捉えられてきた。そのためか、児童虐待防止法が1933(昭和8)年にはじめて制定されたことは、それほど知られていない。あるいは、知られていても、当時の児童虐待は今日とは違って、親権が親の支配権であり、親が子の「生殺与奪」の権利すら持っていたかのような時代の問題と見なされている。だが、はたしてそうか。本発表では、明治以降の法制度の整備過程で近代家族の理念に基づく親子関係規範が形成され、それが児童虐待防止法の制定を可能にしたと考える。

ここで近代の親子関係規範として想定しているのは、主に以下の2点である。①「自然」の情愛を持つ親こそが子どもを育て教育する権利と義務を持っている。②親は未熟な子どもを成長させ、親から独立させなくてはならない。今日ではあまりに当たり前のこうした規範は、新聞・雑誌などの言論や学問研究によって徐々に形成されてきただけではない。これらの規範の形成には1898(明治31)年制定の明治民法が、はじめて親権を規定したことが大きな影響力を持ったと考えられる。明治民法は戸主や他の親族の関与を排して、親にのみ子どもの教育に関する権利と義務を認めるとともに、親の権限に期限や制限を設けた。近世までの儒教道徳が、どんなに横暴で無慈悲な親に対しても子どもは生涯服従をしなければならないとする「孝」を強調してきたことからすれば親の教育責任を定めた明治民法の親権は、儒教道徳とは異質な近代の親子関係規範を前提としたものであったと言えるだろう。

明治民法の親権がこうした近代の親子関係規範を前提にしたのは、近代の国民国家が次世代の国民および労働力の再生産を自ら自発的に担う「私的領域」として家族を制度化したからである。しかしながら、実際には親がみなそうした責務を十分果たすとは限らない。そこで、明治民法は、親があるべき責務や機能を果たさない場合、「私的領域」であるはずの家族に介入し、最終的には親の権限を剥奪する親権喪失制度を定めた。明治民法によってこうした規範と制度が形成されたからこそ、虐待を行なう家族に対して法的に介入する児童虐待防止法を制定することができたのである。

だが、こうした一般的な規範と制度だけでは児童虐待を法的規制の対象とすることはできない。児童虐待を禁止する法を制定するためには、従来虐待と見なされていなかった親の言動を本来親がすべきではない虐待行為として認定する必要がある。しかも個々の親の個別的な問題ではなく、社会的な背景や要因をもち、国家・社会の損失につながる社会問題として発見されなくてはならない。児童虐待問題の発見はまた、本来あるべき親の役割から逸脱した家族を見つけだし、虐待をする家族に介入して、本来あるべき家族(近代家族)を形成していく過程でもある。本発表では、このような児童虐待の社会問題化の過程を法制度の整備や政策の変化を通して考察していきたい。

 

第6報告 服部 美奈(名古屋大学)

「20世紀前半の蘭領東インド・イスラーム社会における「近代家族」と子ども観――雑誌『アイシャの声(Soeara Aisjijah)』(1926-1941)に焦点をあてて」

本報告は、近代への移行期であった1920年代から1930年代にかけての蘭領東インドにおいてイスラーム改革運動の影響を受けたムスリム女性たちがこれからの家族のあり方と子どもの教育をどのように論じたのか、そこで描かれる模範的な家族像とはどのようなものであったかを考察する。そして、その考察を通してイスラーム社会における「近代家族」と子ども観に関する議論の特質を明らかにすることを目的とする。本報告での具体的な分析対象は、近代を志向するムスリム女性によって創刊された雑誌『アイシャの声(Soeara Aisjijah)』(1926-1941)である。

雑誌『アイシャの声』は、「アイシャ」という女性組織によって1926年にジャワ島中部の古都ジョグジャカルタで創刊された雑誌である。女性組織アイシャは蘭領東インドで1912年に設立された近代改革派のイスラーム組織「ムハマディヤ」の女性部門として誕生した。アイシャという組織の名称は預言者ムハンマドの妻の名にちなんでおり特に教育や社会福祉(孤児院の設立など)の分野を中心に幅広い活動を展開した。

雑誌『アイシャの声』は月刊誌で各号16頁構成をとる。年代によっても異なるが、雑誌の項目はおおむね、「巻頭言」、「宗教と助言」、「教育と模範」、「家事」、「アイシャからのお知らせ」、「各種の記事」からなる。そのなかの「宗教と助言」および「教育と模範」には他の項目に比して多くの紙面が割かれていることから、宗教と教育というトピックがこの雑誌のなかの主要なテーマであったことがわかる。それぞれの項目で論じられているトピックの一例をあげると、「宗教と助言」欄では、女性の外出をめぐる解釈の相違、善行のために男女が共に努力する義務、預言者ムハンマドと妻との関係、学校で男性が女性に教えることとその逆の場合の是非などが、クルアーンとハディース(預言者ムハンマドの言行録)にもとづき議論されている。また、夫婦の関係を論じた記事では、夫に対する妻の義務と妻に対する夫の義務、そして夫と妻それぞれの権利を尊重することの重要性や、預言者ムハンマドが妻たちを非常に大切にしたことが模範として取り上げられ、理想とされる家族像が論じられている。「教育と模範」欄では、乳幼児の世話の方法、子どもに教えるべき食事のマナー、子どもに対する両親の義務などについてクルアーンとハディースをもとに論じられている。さらに「各種の記事」では、海外のムスリムや女性をとりまく状況が紹介されていることが特徴で、モロッコの女性や中国のムスリムに関する記事、アメリカやトルコのイスラームの状況などが掲載されている。

このように雑誌『アイシャの声』には、イスラームにおける男性と女性の義務と権利、理想とする夫婦関係や家族像、子どもの教育に関する記事が数多く掲載されている。この雑誌の書き手と読み手はムスリム女性であり、彼女たち自身が上記の問題を提起していることから、1920年代から1930年代にかけての蘭領東インドにおいて、女性たち自らがイスラームの二大法源であるクルアーンとハディースに立ち返り、近代という時代のなかでイスラームにおける家族のあり方を模索していたことがわかる。

イスラームにおける近代は、近代化への対応という側面と同時に、1400年余り前の本来のイスラームの教えに立ち返るという側面を合わせもっている。本報告のタイトルで、あえて括弧付きの「近代家族」としたのは、イスラームにおける近代家族の模索は、近代への移行という時間軸と、その逆方向である過去への遡及という時間軸が併存するためである。近代という時代に直面した改革派のムスリムたちは、クルアーンとハディースに改めて立ち返ることにより近代との対峙法を模索した。本報告を通して、西洋を起源として生み出された近代家族の概念とは異なる形の近代家族、つまりイスラーム社会における「近代家族」と子ども観の特質を明らかにしたい。

 

第7報告 河合 務(鳥取大学)

「フランス出産奨励運動の子ども観と家族――20世紀前半における「多産化への教育」」

20世紀前半のフランスでは労働力不足・兵員不足などをともなう人口減退への懸念から、多産な家族を理想化する出産奨励運動が高揚した。これは前世紀に顕著となった少産化への流れに抗して多産化の規範を流布する運動であったが少産社会への人口転換の過程においては、どのような子ども観の変容・葛藤が生じていたのか。本発表では出産奨励運動の子ども観の分析を中心として、この運動に内包されていた多産を奨励する家族規範と多産化を目指す教育の内実について考察する。併せて、出産奨励運動の背景にあった人口学者アルセーヌ・デュモンの「社会的毛細管現象」という説明モデル、少産化を是認する産児制限運動の主張「堕胎の権利」論との対比からも検討を行う。

1896年に統計学者ジャック・ベルティヨンによって運動団体「フランス人口増加連合」が設立され、この団体を中軸としてフランスの出産奨励運動が展開された。ベルティヨンはデュモンの唱えた「社会的毛細管現象」論を基本的に受け入れ、少産化の原因が人びとの社会的上昇への願望にあると考え、多産であることが社会的上昇の阻害要因だと人びとが考える風潮を抑制する方向を模索した。

ベルティヨンの遺志を受け継いだフェルナン・ボヴラは1924年に発表した政策提言集において産児制限を行う家族と多子家族が同じ生活水準を保つことができるように家族手当の充実と税制改革を提言するとともに避妊・堕胎の抑制、ポルノグラフィの取り締まり、アルコール中毒の防止をも提言した。こうした提言の多くは、ボヴラ自身が起草委員のひとりとなり1939年に制定された「フランスの家族と出生率に関するデクレ」(通称「家族法典」)に盛り込まれることとなる。

「フランス人口増加連合」は1930年代末にはパンフレット等を用いて堕胎抑制キャンペーンを展開した。妊娠初期から胎児が人間であるこという胎児観に基づいて、堕胎は嬰児殺と同じであるとされ、胎児保護と母親の健康保護が連動的に論じられるとともに、性・生殖をめぐるフランス社会の習俗の弛緩の引き締めという視点からも堕胎抑制の必要性が主張されている。

出産奨励運動においては、多産化に向けて子ども期から働きかける場として学校が注目され、フランスの人口動態を他国との比較を軸としながら教える「人口問題教育」が推進された。この教育では子どもの生命が国力の源泉として位置づけられ、家族の多産化が国家に対する「義務」や「責任感」の問題として強調されている。人口動態や家族に関するトピックは特に「地理」「道徳」「家庭」科の学習内容とされていたが、この時期の学校教科書の人口や家族に関する記述には出産奨励運動の影響がみられ、また、「人口問題教育」の実施に適合的な記述がみられる。本発表では、こうした点についても検討する。

 

第8報告 小玉 亮子(お茶の水女子大学)

「20世紀初頭のドイツにおける母の日と教育」

教育学にはずっと母の影が付きまとってきた。この母の影を「母の日」の制度化という一つの動き注目することで改めて考えてみる。というのが本発表の目的である。

18世紀末にドイツの大学で教育学講座が開設されて以降、19世紀を通じてドイツでは教育学は学問としての歴史を積み上げてきた。新興の実学が次々とその地位を得ようと奮闘している中で、教育学もまたその体系を作り上げてきたが、そのプロセスで母は繰り返しその姿を刻んできた。教育の基本となるものとして母は位置付けられてきた(小玉 2016)。このような議論において繰り返し参照されるのが、スイスの教育者ペスタロッチである。ペスタロッチが活躍した時代は、18世紀から19世紀の転換期の革命から戦争へといういわばヨーロッパの混乱期である。戦争の中で教育のあり方を構想しようとした彼は、母親の位置付けを強調した。このことは「教育学における母」という主題を検討するにあたって、そのスタートに位置付けておきたい。

次に、ペスタロッチの次に教育学における母を考える上で注目されるのが、19世紀後半における女性運動の中の母についての議論である(姫岡 1993)。ここで注目すべきことは、教育学において繰り返し参照されてきた「母」を自らの旗頭に招き入れ、このことによって自らの存在意義を示そうとした女性運動が一定の力を持ったということである。19世紀から20世紀の世紀転換期はフェミニズムと教育学が重なり合う時点であるということができる。

女性たちは、母を全面に出して、就学前から初等教育段階における女性の領分を確かなものとしていく。その時に様々な戦略が取られるのであるが、その一つがアメリカから輸入された「母の日」というアイディアであった。しかし、このアイディアをめぐっては、一枚岩でことが進んだわけではなかった。一方で賞賛があり他方で冷笑がきかれた。この不協和音に注目しながら、しかし、大きなうねりの中で母の日が拡張していくプロセスを追跡していきたい。そして、18世紀から19世紀の世紀転換期において戦争の時代にペスタロッチが教育学に母を決定的に位置付けたように20世紀の世紀転換期においてもまた、戦争の中で母が浮上したことを報告の中で明らかにしていきたい。

 

第9報告 海妻 径子(岩手大学)

「植民地(主義)的男性性と父子関係」

近代家族を誕生させた産業化は、他方では資源と新しい市場をめぐる植民地拡大競争をももたらした。海外の先行研究では、植民地という経験が家族イメージやジェンダー秩序、とりわけ男性性の歴史的構築に与えた影響が、さまざま論じられている。植民地戦争の拡大・長期化は暴力的・性的にエネルギッシュであることと男らしさをより強く結びつけ、秩序の遵守や良き父・夫としての徳と結びついたブルジョアジーの男らしさを揺るがしたという指摘など。ひるがえって日本では、両者にどのような影響を見出し得るのか。

この問題を考えるため本発表では、満州移住協会の機関誌『拓け満蒙/新満洲/開拓』(昭和11[1936]年4月~昭和20[1945]年1月)を分析する。満州農業移民に注目する理由は、第一にプランテーション農園のような労働力需要の存在する先への移民とは異なり、満州移民はソ連・中国への地政的理由から同地域を実効支配したいとの政策的理由で推進された点である。国境近くの未開拓地に農家の二三男が開拓団を形成して入植し、「開拓花嫁」を迎えて後も、拡大した耕地面積を維持するために、開拓村内での共同農業を営み、収益があがらなくとも「出稼ぎ移民」のように帰国したりしないのが理想とされた。したがって『拓け満蒙・・・』誌では、伝統を重んじ父祖の地を守るよりも、「十町歩の地主」になろうとする進取の気が賛美されつつ、「一匹狼」的ではなく協調性ある男性像が称賛された。一方では花嫁不足から「拓士は妻を大事にする」「開拓地では姑がおらず楽しく暮らせる」ことが強調され、また満人苦力や使用人が「悪影響」を及ぼさない日本人夫婦と子どもだけの「家庭」が、次世代への日本文化の維持継承の基盤だと語られつつ、他方では分村により伝統的農村の共同性を開拓村へ持ち込むことが期待された。

第二に満州移民は満蒙開拓青少年義勇軍という、近代家族規範においては親による保護と教育の対象とされた年齢の男児を、大量に動員したという特異な面をもった。分村による共同性の持ち込みは必ずしも機能せず、移民定着につながらなかった。成人は「西洋流の個人主義」に毒されているのみならず、農村の因襲や確執、家格秩序に凝り固まっており、無垢な少年を教育することでしか植民地開拓の担い手はつくれないとの認識が、青少年義勇軍を創設させた。彼らは訓練所長・開拓団長を父とする擬似家族的ホモソーシャル(男性集団)を形成し、先行研究ではヒトラー・ユーゲントなどとの類似性も指摘されたが、ミソジニーと結びついたホモソーシャリティ称揚言説はほとんどみられず、母親恋しさに泣く少年兵の弱さは「無垢さ」として、忌避されずに表現された。移民に反対する無知な父親に異を唱える息子は「不孝」ではなく、息子の(将来の)妻が移民の意義を理解し、彼女の愛が父の無理解に悩む息子を支える、という描写も頻繁に登場した。

以上のように満州移民という経験は、農業従事者に「家庭」や夫婦間の愛情の重視、家父長的な男性性や父子関係規範の揺らぎをもたらした一方で、家族農業を前提するがゆえに「女性の庇護者」としての男性性を前景化させず、家父長と家族従業者としての序列を夫婦間に残存させ続けた。このことが、板垣邦子氏による雑誌『家の光』研究などにより従来議論されてきた、農村への近代家族イデオロギーへの浸透という文脈に照らしたとき、どのような意味をもつかを考察することが、今後の重要な課題だと考える。

 

第10報告 李 璟媛(岡山大学)

「1960年代以降の韓国における子どもの教育と家族政策」

本報告では、男児選好思想、産児制限、出生性比の不均衡、子どもの少人数化、教育の大衆化と格差などをキーワードに、1960年代以降の韓国における子どもの教育をめぐる変化を家族政策とのかかわりから分析するとともに、今日的課題を考える。まずは、韓国における子どもをめぐるさまざまな変化について、子どもの出産の動向と出産に関連する家族政策の変化を踏まえて分析する。次いで、子どもの教育をめぐる変化について、教育等関連法制度と統計を中心に確認する。最後に、これらの分析を踏まえながら、子どもの教育と家族政策の関連と、これらの連鎖としてもたらされている今日的課題を考えたい。

韓国では、1950年代以降急激に増加した人口問題の解決方法として「家族計画」を国策として採択、1962年から実施した。1960年代以降に大韓家族計画協会で提示した標語をみると、「たくさん産んで苦労しないで、少なく産んでよく育てよう」「やたらに生んだ子ども乞食になりかねない」(60年代)、「娘・息子区別しないで2人だけ産み、よく育てよう」(70年代)、「2人も多い、1人だけ」「1組夫婦子1人、隣人できょうだい」(80年代)などがある。出産を抑制する家族計画政策の結果は、合計特殊出生率の低下という形で現れた(1960年:6.0、70年:4.5、80年:2.8、90年:1.57)。1960年代から実施された出産抑制家族計画政策は、一定の成果を出した後、1990年代後半に廃止された。その間、男児選好思想が強かった韓国では、出産抑制政策の結果として、男児を選んで出産する傾向が強まり、出生性比不均衡の問題が深刻な社会問題になった。その弊害を解消すべく、1987年には「医療法」を改正し、「胎児の性鑑別行為等の禁止」条項を新設した。

韓国では、1948年7月17日に制定された「憲法」によって全国民が均等に教育を受ける権利が定められた。さらに、1949年12月31日に公布された「教育法」には、全国民が6年間の初等義務教育を受ける権利が定められ、1950年6月1日から実施することが明記されている。1984年には3年の中等教育義務化が決まり、1985年から僻地を優先して実施され、1994年に郡部まで拡大、2004年には全国で実施するようになった。2015年現在は、9年の義務教育を終えた該当年齢の児童のほとんどが高等学校に進学し、高校生の8割が大学に進学するという教育の大衆化がみられている。

1960年代以降における子どもの教育をめぐる変化については、長男の教育にオールインする家族、教育の大衆化、子どもの教育にオールインする家族、教育の大衆化の中の格差などの言葉で説明することができる。家族計画の成果は、子どもの教育に対する親の意識にも影響を与えている。長男の教育に注がれていた親(と家族)の関心は、子ども、特に娘に向けて高まり、しだいに、教育の大衆化とともに、性別による平等化をもたらしている。その中で、子どもの教育をめぐり、早期教育、早期留学、教育移民、ギロギパパという新たな現象や、教育における新たな格差問題(入試などに関する親の情報収集能力や親のみならず祖父母の経済能力をも含む格差)が生じており、これらは、韓国における新たな社会問題として浮上している。韓国社会における教育の大衆化の中の格差とその課題に関する議論は、すでに始まっているので、引き続き分析を進めたい。

参考文献(韓国語)

教育部、1998、『教育50年史―1948-1998』教育部。

金勝権他編、2000、『韓国家族의 変化와 対応方案』韓国保健社会研究院。

第11報告 小山 静子(京都大学)

「「作るもの」「育てるもの」としての「よい」子ども――「健全育成」と母子保健法」

1950年代、日本では受胎調節の実施や家族計画の進展によって急速に少産化が進み、子どもは「授かりもの」から「作るもの」へと変化した。そして1960年代に入ると、少産化を背景に、政府の関心は「作るもの」となった子どもをいかに「健全」に育て、「資質」を向上させるのかという問題へと移行していくことになる。本報告では、なぜ「健全育成」が政策課題として浮上したのか、これは何を意味していたのかを、現代の母子保健政策の枠組みを作った母子保健法の成立(1965年8月18日)に焦点を絞って考えていきたい。

1.1960年代前半という時代
家庭という問題領域への国家的関心の高まりについて、文部省や厚生省の動向を中心に概観する。

2.「健全育成」をめぐる厚生省の動向
少産社会の実現による労働力不足への懸念を背景として、限られた人口の資質向上、そのための健全育成が課題として認識されていき、厚生省では中央児童福祉審議会を中心に、要保護児童対策ではなく、一般家庭の児童対策として、幼少人口の健康管理、障害児の早期発見、母性保健対策、健全な家庭づくりなどに関する提言が行われていった。それらの内容がどのようなものであったのかについて明らかにする。

3.母子保健法の制定をめぐる議論
母子保健法は1965年2月に国会に上程されるが、前年より国会では母子保健法の必要性をめぐる議論がはじまり、1964年12月に中央児童福祉審議会母子保健対策部会は、母子保健法に結実する中間報告として「母子保健福祉施策の体系化と積極的な推進について」を提出した。これらの内容や母子保健法をめぐる国会審議のありようを検討することで、母子保健政策がどのようなものとして樹立されたのかを考察する。

第12報告 土屋 敦(徳島大学)

「施設の子どもたちの戦後史――1970-80年代初頭の日本社会に焦点を当てて」

日本社会における子どもの施設養護は、乳児院や児童養護施設といった児童福祉施設を中心に、乳児院は約100施設、児童養護施設は約500施設、約4万人あまりの定員数で、戦後約70年間にわたり維持されてきた。この間、施設養護を受ける子どもの内実は、戦後直後の戦災孤児や浮浪児が主であった時代から、高度経済成長期における親の離婚や蒸発、生活困窮などによる養育困難児が主であった時代、そして1990年代以降は被虐待児を家族から引き剝がしながら保護する時代へと大きく変容を遂げる。また、そうした施設養護を受ける子どもの変容過程においては、特に児童養護の専門家による公的に「保護されるべき子ども」の問題機制の枠組みをめぐる議論が連綿と積み上げられてきた系譜がある。

本発表では、特に1970年代初頭から80年代初頭までの時期に焦点を当て、施設養護の専門家間でなされた議論および子どもの人権運動の軌跡の中で出された主題を分析する中で、同時期が、子どもの施設養護問題における「保護されるべき子ども」の問題機制の枠組みの大掛かりな変容時期に該当していたことを跡付けていくことを目的とする。その際に、日本における子どもの施設養護の運営上主導的立場にあった全国社会福祉協議会養護施設協会(以下、全養協)から発信された機関誌や運動資料を一次資料とするとともに、特に親の実子に対する「親権制限問題」の歴史的系譜を描き出す中から上記の主題を描き出すことを目的とする。

児童養護における「親権制限問題」とは、例えば児童養護施設や里親に対して、実親からの子どもの引き取り要求があった際に、親の意志や親権に抗しても子どもを福祉機関の中で「保護すること」を企図して制定された制度である。この「親権制限問題」をめぐる議論の歴史的系譜を追うことは、施設養護における「保護されるべき子ども」の問題機制の枠組みの変容を跡付ける際に大きな主題となる。

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