澤田佳世「戦後沖縄の『人口政策』」

第8報告 「戦後沖縄の『人口政策』」

澤田 佳世(沖縄国際大学)

本報告の目的は、戦後沖縄の「人口政策」について、日本本土とは異なる歴史的変遷を論じることにある。その際、本土復帰前(1945年~1972年)の沖縄に注目し、人口変動要因である出生とその近接要因である中絶・避妊に関連する政策・政策的意図、ならびに政府の問題認識や社会的対応のあり方に焦点をあてる。具体的には、米軍統治下の沖縄での優生保護法「廃止」と琉球政府の「人口問題」論議、母子保健と家族計画のあゆみ、および避妊・中絶に関する意識と実態をとらえる。国際関係と歴史的文脈をふまえながら、戦後沖縄の「人口政策」と日本本土および東アジア(台湾・韓国)の人口政策との違い、ならびにトランスナショナルなつながりを検討する。
分析対象とする主な資料は、琉球政府文書、『避妊の方法(受胎調節の普及)』(琉球政府社会局編、1955年)、『琉球の人口問題』(同経済企画室、1957年)、『厚生白書(1960年版)』(同社会局、1961年)、『厚生白書(1963年版)』(同厚生局、1964年)、琉球列島米国民政府(以下、USCAR)厚生教育局文書、『沖縄の家族計画』(沖縄家族計画協会、1969年)、その他同協会関連資料などである。
本報告が対象とする時代は、廣嶋(2017)の時代区分に依拠すると、日本本土における「戦後第1期1945-59年:人口過剰論・人口増加抑制策の形成・展開期」と「戦後第2期1960-71年:人づくり政策と出生率低下の懸念の時代」に対応する。日本本土では、政府主導のもと、優生保護法による中絶の実質的合法化と受胎調節の普及による家族計画の推進が図られ、出生率が低下した。一方、米軍政下の沖縄では、優生保護法は1956年8月、公布前日にUSCAR布令によって「廃止」され、「健全者」の中絶は非合法のまま、受胎調節による家族計画促進の政策的対応はとられなかった。優生保護法が施行されず、政府主導の家族計画推進や母子保健の行政的対応が遅れる中、戦後沖縄の合計特殊出生率は、1955年4.45、1960年3.16、1965年2.99、1970年3.43と、日本本土と比して相対的に高水準となっている。
本土復帰前の沖縄の「人口政策」とその主体、および問題認識のあり方は、日本本土とどのように異なり、どのように結びついているのだろうか。
戦後1950年代の沖縄では、USCAR・琉球政府ともに人口の「過剰性」を認識していたが、出生抑制政策は展開していない。USCARは、移民送出による沖縄の人口抑制を企図し、出生抑制には消極的姿勢を示した。一方、琉球政府は出生抑制への政策的関心をもち、人口問題研究会や人口問題審議会を設置、「人口問題」とその対策に関する議論を重ね、1957年には『琉球の人口問題』を刊行した。先立つ1955年には、家族計画普及を目的に、琉球政府社会局編『避妊の方法』(琉球家族計画普及会)発行、厚生局(社会局)を中心として優生保護法制定も企図され、USCARとの交渉が行われている。
戦後沖縄の家族計画普及の組織的活動は、1960年代半ば以降、日本家族計画連盟や国際家族計画連盟の支援を受け、沖縄家族計画協会を中心に「民間」主導の形で展開した。母子保健の行政的取り組みについては、1965年度に戦後はじめて予算が計上された。保健所法・児童福祉法による母子保健対策の実施は遅れ、1961年に母子健康手帳の交付が開始されたが、妊娠届出は全出生の7.6%(1962年)であり、母子手帳の交付率61.7%(同年)のほとんどが出生後交付である。母子保健法は、日本本土から遅れること1969年に立法公布され1970年に施行した。報告当日には、本土復帰前の沖縄における家族計画事業の展開や母子保健の実情、および出生動向や中絶・避妊の意識と実態について紹介する。
本報告は、本土復帰前の沖縄に焦点をあてることで、人口政策を研究対象とする際に前提とされてきた国民国家という分析単位を相対化し、戦後日本の人口政策の歴史的展開を複眼的に捉え直す試みとする。固有の時代性と地域性をもつ米軍政下沖縄への注目により、国境線の内側と外側というナショナルな分析枠組みを超えて、東アジアにおける戦後の人口政策(とくに家族計画)の展開を、トランスナショナルな視点から読み解くことの可能性を探りたい。