2023年度 春季研究大会 シンポジウム要旨

2023年度春季大会 シンポジウム『家族と病い』

1.趣旨説明 田間泰子・土屋敦

 人の生をひきうける家族は、疾病によって大きな影響を受ける。その影響は、その疾病を社会がどのように意味づけ、どのように対処するか、そして家族に何を担わせるかということと深く関連する。本企画は、そのように社会的状況と不可分な人々の疾病の経験を「病い」と表現し、比較家族史的アプローチによって、「家族と病い」の歴史的諸相をとらえることを目的とする。
 本企画は、2部4セッションで構成される。第Ⅰ部「近世/近代における家族と病い」は近世日本と近代の英国・植民地朝鮮・日本を対象とし、近代化が「家族と病い」にもたらした変容を考える。第Ⅱ部「病いの特別イシュー」は、慢性の感染症であるハンセン病と急性の感染病(天然痘、COVID-19)を取り上げ、近代化の一つの重要な要素としての国家の役割に留意しつつ、近現代社会における「家族と病い」の多様な課題を考える。
 第Ⅰ部 第1セッション「日本近世の死と病いと家族」は、日本の近世社会を対象に、死をも含めて、マクロおよびメゾの視点から歴史人口学、そしてメゾおよびミクロの視点で歴史学から「家族と病い」にアプローチする。死と疾病がより身近にあった時代に、人々はどのように「家族と病い」、そして死を経験したであろうか。第2セッション「家族のいない子どもの病い」は、第1セッションでの日本近世への理解を踏まえたうえで、近代化という社会変容のなかでの「家族と病い」にアプローチする。近代化が先行した英国、大日本帝国の影響を受けつつ近代化した植民地朝鮮、第二次世界大戦後の日本を取り上げ、「家族のいない子ども」の病いに焦点を当てることにより、近代化と近代家族規範の成立の多様なありようを逆照射的に浮き彫りにする。
 第Ⅱ部第1セッション「家族とハンセン病」は、第二次世界大戦前・後の大日本帝国/日本と、朝鮮/植民地朝鮮/韓国を対象とし、国家と家族の配置の変容のなかでの「家族と病い」のありようを分析する。第2セッション「家族とコロナ禍/パンデミック」は、国家と家族の配置の現代的状況への変容と課題を論じる。
 以上、近世から近代、そして現代へという近代化前後の歴史軸を設定し、「家族と病い」について討議することで、「家族と病い」、また「病い」というレンズを通して「家族」そのものに対する研究的知見をより深めたい。そして、本シンポジウムが、人々にとって、コロナ禍後の家族と社会のあり方を構想するための一助となることを願う。

2.要旨

第Ⅰ部「近世/近代における家族と病い」
第1セッション「日本近世の死と病いと家族」

第1報告 死が身近な社会の中の家族―歴史人口学的アプローチ―
平井 晶子
 本報告では、歴史人口学的アプローチから、近代以前の、死が身近な社会における家族の特性を考える。本報告で用いる資料はいずれも戸口資料であるが、それらをマクロ、ミクロ、メゾという重層的な視点から考察することを通して、死が身近な社会で生きることのリアリティに、またその中の家族のリアリティに迫りたい。
 マクロな視点としては、ユーラシア・プロジェクトの成果にもとづき、前近代の死亡の実態を確認する。まずは平均寿命が30歳代半ばという近世農村において、実際の死亡のピークは30歳代にあるわけではなく、乳幼児死亡率の高さに起因するといった基礎的な事実をみていく。次に高度な統計分析であるイベント・ヒストリー分析を用いた国際比較研究を参照しながら、前近代社会における家族規範や家族類型が死亡におよぼす影響を論じる。
 次に、ミクロな視点として、幼くして母を亡くした一人の女性に注目し、そこから多死社会で生きる人々の実態を見ていく。1817年に生まれた「かの」は6歳(数え年)で母を病で亡くすも、父や兄、祖母たちとたくましく子ども時代を生き抜く。そして22歳で婿を迎え、やがては息子にも恵まれる。しかし息子もまた3歳で病死する。このように「かの」のライフコースや家族経歴を詳細にたどることで、「かの」の周辺にいる人々のライフコースも浮かび上がる。そして個人の柔軟な生き様、人生の厳しい現実をみていく。
 最後に、メゾ的な視点として、「かの」が生きたのと同じ東北農村(陸奥国安達郡仁井田村)の家族の特徴を、家族成員の死亡/生存という観点から定量的に分析し、前近代社会における家族が、いかに流動的メンバーで構成されていたのかを明らかにする。子ども時代に経験する家族成員の変化の割合や、子ども時代に家族成員の死を経験する割合、逆に親や祖父母が子や孫の死を経験する割合などを定量的に把握し、死亡/生存という観点から家族の実態をみていく。
 概して前近代の日本家族では、死亡だけではなく婚出や離別といった契機も含め家族メンバーの流動性が高かった。このような流動性の高さを踏まえると、死が身近であることが当時の家族の中でどのような意味をもったのか、あらためて問う。

第2報告 徳川時代における感染症と家族―病いが家族形成に与える影響―
中島満大
 現代社会において、今もなお新型コロナウイルス感染症が猛威をふるっている。人口学においては、感染症が人口ならびに死亡に与える影響について検討することが第一の関心となる。しかしながら感染症は、人口や死亡だけでなく、出生や家族形成にも影響を与えるのではないか。本報告では、徳川時代の村落を対象として、感染症、特にコレラや疱瘡に焦点をあて、病いが出生や家族形成にどのようなかたちで働きかけているのかを明らかにしていく。
 本報告が取り上げるのは、肥後国天草郡高浜村と肥前国彼杵郡野母村の二つの村落である。高浜村は疱瘡との関係を、野母村ではコレラとの関係について分析した。
 感染症と出生の分析に先立って、死亡クライシスという観点からどの年代の死亡数の増加ならびに死亡率の上昇が、高浜村では疱瘡の、野母村ではコレラの影響であるのかを特定した。高浜村では文化期に三回の疱瘡の流行があったが、今回は1807(文化4)年、1808(文化5)年に疱瘡の流行を取り上げる。そして野母村では1822(文政5)年、1858(安政5)年、1862(文久2)年の三回にわたってコレラが流行しており、各流行について分析を行った。
 まず高浜村と疱瘡の事例では、疱瘡は相対的に子どもよりも、青年・壮年期の大人の死亡と結びついていた。また疱瘡の影響で家頭が亡くなった場合、世帯内の男子が替門で継承し、その他にも別家入で他家に吸収されているケースが東氏の先行研究で指摘されている(東昇、2021「近世後期天草郡高浜村における疱瘡流行と迫・家への影響」『京都府立大学学術報告. 人文』73号、129-152)。
 次に野母村とコレラとの関係をみると、コレラは子どもを産む可能性の高い年齢層の女子の死亡を経由して、出生に影響を与えていた。したがって野母村におけるコレラの事例から、感染症が直接子どもの死亡に結びつくよりも、感染症は母親になる可能性の高い女子の死亡に働きかけ、家族形成を水路づけしていた。

第3報告 幕末の日記史料にみる「家」と看護
鈴木則子
 江戸時代の介護の特徴について、近世史研究は➀看病・介護の責務は当主が負うこと、➁女性は責任ある領域を担えない存在という性差別観念に基づいて、女性は介護の担い手になっても責任は負わなかったこと、➂上層家庭では介護に奉公人労働や介護要員を雇用していたことを指摘している。また近代史研究は、明治以降、帝国主義国家のもとで女学校教育などを通じて女性が「衛生の手先」「衛生の尖兵」と期待されるよう変化したことを明らかにしてきた。
 本報告は、このような先行研究の成果を、駿河国富士郡大宮町の酒造店主、枡屋弥兵衛の筆になる約20年分の日記史料『袖日記』に登場する家族や親族による看病の記録の分析を通じて検証するものである。
 小児感染症である疱瘡や麻疹、幕末に大量の死者を出した新興輸入感染症のコレラ、妊娠・出産、老人性疾患などの際に、枡屋では家族・親族・使用人、近隣の人々が様々な形で看病や介護に関わっている。本報告では弥兵衛の子供の病、実母の病、妻の実家の父母の病、嫁いだ姉妹の病の時の介護の実例を取りあげて、弥兵衛が医療の選択や看護に主体的に関わるいっぽうで、女性が第一線の介護要員として家族だけでなく親戚からも強く期待され、頻繁に動員される状況や、女性が実家に帰って手厚い看護を受けていることを紹介する。これらのことを通じて、江戸時代の中・上層家庭においては、親族まで含めた「家」が構成員の健康のために重要な役割を果たしていたことや、家庭看護のジェンダー構造について考察を加える。

第Ⅰ部第2セッション「家族のいない子どもの病い」
第1報告 1834年イギリス新救貧法下における児童の施設養育と「病い」
内本充統
 本報告は、1834年新救貧法により救貧行政の枠組みが定められた19世紀イギリスにおいて、児童の施設養育がどのように展開されたのかという点を、児童施設における健康や発達に関するリスクの実態と、それらを克服するための取り組みを通して検討する。
 1834年新救貧法は、労働を通じて貧困者を自立させることを目的としたものであったが、児童の施設養育に関しても大きな変革をもたらした。同法は貧困児童をワークハウスに収容し、教育や職業訓練を実施することを規定した。しかし、ワークハウスの環境は劣悪であり、感染症や栄養失調などの健康問題が課題となっていた。こうしたワークハウスでの養育を改善するために導入された、児童専用の大規模収容施設では、児童の身体的発育や精神的発達に配慮したケアや教育が不十分であった。とくに大規模収容がもたらす弊害が顕著に表れたのが、感染症の蔓延と女児の成長発達の遅れであった。
 1870年代以降には、家族をモデルとした施設養育がイギリス国内に浸透する。家族モデルは、それまでの教育と職業訓練を軸とした施設養育を、児童の成長発達を重視する方向へと舵を切るものであった。また、家族という形態は、教育と職業訓練とは異なるレベルで、児童と職員との具体的な人間関係の指針となり、組織運営や養育上の課題を克服することが期待された。とくに1870年代以降に誕生した児童施設では、呼称が「School」から「Home」へと変更され、施設養育の役割が単に学びや職業訓練だけでなく、生活全般に及ぶことが認識されるようになった。
 しかし、1905年に設置された「救貧法及び貧困救済に関する王立委員会」による調査において、施設養育を受ける児童の身体的成長発達の遅れが明らかにされた。こうした事例をふまえて、本報告では1834年新救貧法による施設養育の近代化への取り組みと、その抑圧性と限界性について考察したい。

第2報告 香隣園における「病い」と擬似家族―植民地朝鮮末期の孤児問題と養育
田中 友佳子
 本報告では、植民地期末期の朝鮮に設立された香隣園(ヒャンリンウォン)に焦点を当て、擬似家族を通した養育と教化について考察する。植民地期以前の朝鮮において、遺棄児や行乞児〔浮浪児〕は特別な関心を払われる救恤対象であった。ただし、官庁は一時的な「留養」を行うのみであり、長期的に収容する施設は存在しなかった。この養育方法が大きく変わったのは19世紀後半の開港期以降である。朝鮮では長期的収容を行う近代的養育システムが植民地統治下で導入されたため、養育システムの「近代化」と「植民地統治」との関係性に注意を払わなければならない。植民地朝鮮を統治した朝鮮総督府にとって、孤児や浮浪児を「浮浪児狩り」により街頭から一掃するだけでなく、施設に収容して「従順で勤勉な農民・労働者」「忠良な皇国臣民」としていかに養育、教化するかが重要だったのである。
 本報告で対象とする香隣園は、男児を収容する孤児院として、朝鮮人牧師の方洙源(バン・スウォン)により京城府に設立された。当時の孤児院では保母を置き、擬似的な母子関係が重視されることが多かったが、香隣園では父子関係と兄弟の組織化を通じて養育と教化が行われた。父親役割を担ったのは、方洙源、キリスト教の神、天皇の三者である。方洙源は建物や土地、資金を調達する経済的支柱となり、また「静聴」を通じて神と向き合わせ、園の秩序を維持した。さらに、国防献金や特別志願兵制度に参与して物的・人的に帝国日本に貢献し、「忠良な皇国臣民」になろうとする園児の様子も窺える。加えて、園児を寮長―兄貴―弟に階層化し、「兄弟愛」に基づく共同体が作られた。共同体の秩序を保ち、規律を内面化するために、園児同士が監視し、暴力が振るわれることもあった。本報告では、こうした父子・兄弟関係に基づく養育システムを明らかにし、「近代性」「近代的なるもの」の持つ自律的、抑圧的、暴力的な側面を指摘したい。

第3報告 乳児院における母性的養育剥奪論の盛衰――1960~80年代における施設養護の展開から
土屋 敦
 本報告では、「家族と病い」という視座から、孤児院(児童養護施設)や乳児院など、実親家族から離れて生活する子ども(家族がいない子ども)に見られるとされた病理を指摘する学説(「母性的養育剥奪論」(maternal deprivation)/「愛着理論」(attachment theory)の興隆/盛衰過程を、歴史社会学の視座から跡付ける。またその際に、上記の課題を特に2歳以下の子どもの養育施設である乳児院を対象に、全国社会福祉協議会乳児福祉協会(以下、全乳協)発行の機関誌『乳児保育』を分析する中で検討する。またその際に、上記の課題を近代家族規範からの「偏差」の病理化という視座から検討する。
 既存研究においては、戦後日本の施設養護における母性的養護剥奪論/愛着理論の興隆時期には、戦後直後の1950年代初頭および2000年代以降という2つの山があることが指摘されている。本報告では、特に1960年代から80年代までの乳児院における同理論の推移を跡付けることを目的とするが、上記の時期設定は既存研究で指摘されている同理論興隆の2つの山の間の時期における議論の推移を跡付けるとともに、上記の社会的養護史上のミッシングリンクを埋めることを企図している。
 本報告の分析からは、この1960~80年代の乳児院において、母性的養育の剥奪論/愛着理論という専門概念が実践の場に移されるとともに、保育者対入所児童比率の改善や担当保育制など、「子どもの発達」への配慮が施設のあり方を作り変えていった歴史が浮かび上がる。また、1960年代には、それまでの決定論的な見方(「家族のない子ども」「幼少期を施設で生活する子ども」にはすべからく「発達の遅れ」がみられるとする認識枠組み)が後退するとともに、1980年代初頭以降は施設における母性的養育の剥奪/ホスピタリズムに対する克服宣言が出されるようになった。

第Ⅱ部「病いの特別イシュー」
第1セッション「家族とハンセン病」

第1報告 戦前期日本のハンセン病者と家族―九州療養所「患者身分帳」の分析から―
廣川和花
 現在一般に知られている近・現代日本のハンセン病「問題」の核心部分は、肉親との別離や生殖の制限など、大半が「家族」にかかわるものである。これらに対し、とりわけ2001年に熊本地裁にて原告勝訴の判決が下された「ハンセン病違憲国家賠償請求訴訟」以降、国家の責任が厳しく問われてきた。
 しかしハンセン病と家族をめぐる諸問題の原因を、もっぱら国家政策に還元して論じ、政治起源説的な枠組みで解き明かすことには限界がある。近代日本におけるハンセン病者忌避・排除の基礎には、身分制社会・伝統社会の中で形成されてきたハンセン病観とも結びついた「遺伝」病観と、19世紀後期に勃興した細菌学の知見にもとづく「感染」説の重層と交錯が存在し、両者はともに病者と家族の関係を規定する要素となった。明治40年(1907)法律第11号「癩予防ニ関スル件」にもとづき1909年に開始された連合府県立療養所への病者収容は、当初、公衆衛生的な「感染」防止よりも、「遺伝」観が根強くある中で社会的に排除された病者の「救済」に重点をおくものであったことにも留意が必要である。
 本報告では、1909年熊本県に開設された九州療養所(現:国立療養所菊池恵楓園)において作成された入所者の個別記録である「患者身分帳」(菊池恵楓園所蔵)を用いて、明治末期から戦前期日本におけるハンセン病者と家族の関係、および法にもとづく病者の療養所への収容が家族関係に与えた影響について、1931年の法改正(昭和6年法律第58号「癩予防法」)による収容要件の変更にも留意しながら検討する。これにより、入所前の病者と家族をとりまいていた社会的条件を明らかにすると同時に、国家政策としての施設収容が病者と家族との関係にどのように、またどの程度関与したのかを考察したい。

第2報告 ハンセン病をめぐる〈家族〉の経験―ある兄妹(きょうだい)の語りから
蘭 由岐子
 1996年に「らい予防法」(1953年法)が廃止され、ハンセン病の隔離政策は法的に終焉を迎えたが、病者にとって最後に残る問題が家族との関係であった。ハンセン病をめぐる排除と差別は病者だけでなく家族・親族にも負の影響を与えていたからである。2016年には「ハンセン病家族」によって国家賠償請求訴訟が提起され、2019年に原告勝訴の判決が下り、国の加害と病者家族の被害が確定した。
 本報告では、近年、ハンセン病問題が論じられるときに参照されるそのような「加害-被害」の枠組みからではなく、家族員のハンセン病罹患によって家族(世帯)において何が起こり、家族と病者はどのような状況を生きたのか、また病者の療養所入所後、在郷家族とどのような関係を持ち、療養所内でどのような人間関係を築いたのか、それらの経験(心情・意味づけをふくむ)について、具体的な疾患の状況(症状と治療法)をおさえたうえで、ひと組の兄・妹のライフストーリー・ナラティヴから考察する。1932年生まれの兄は11歳で発症し10年近くの在宅療養ののち療養所に入所した。7つ違いの妹は兄に遅れること1年して入所した。いずれも「癩予防法」(1931年法)の時代に発症し、「らい予防法」(1953年法)の時代に療養所生活を送っている。インタビューは個々に行われ時期も数年前後しているが、兄はおもに在宅療養期について語り、妹はおもに療養所内での結婚や人間関係について語っている。
 これらの語りの吟味から、兄・妹の育った家族に両者のハンセン病発病によってどのようなことが起こったのか、その詳細があきらかになろう。そして、療養所における配偶者選択、断種と堕胎、ジェンダー、人間関係に関して、同時代の家族論も念頭におきつつ考察する。

第3報告 Stigma and Discrimination against the Children of People Affected by Hansen’s Disease in South Korea
Jaehyung Kim
 Since 1990’s, a large number of studies have now been conducted on the stigma, discrimination, and human rights violations that people affected by Hansen’s disease in South Korea. However, few studies have looked at how their family members, especially their children, have been impacted. Many children suffered similarly, or even more, than the people affected by Hansen’s disease, and no institutional efforts have been made to solve the human rights violations committed against them. This article analyzes cases where children faced stigma, discrimination, and institutional exclusion, and discusses this in relation to the rational medical knowledge of the time from the perspective of historical sociology. The stigma and discrimination experienced by people affected by Hansen’s disease occurred because of the logic contained in the medical knowledge and health care system of the time, rather than through irrationality based on ignorance and prejudice. The stigma and discrimination experienced by children emerged from, and was maintained by, a similar mechanism. In leprosaria, only male patients who had been vasectomized were allowed to marry, and women who became pregnant were forced to have abortions. If someone came to leprosaria with children, the authorities separated the children from their parents and raised in a separated facility. In the facility, the medical authorities regularly monitored the children closely to make sure they did not develop the disease. Even in the resettlement village where “negative patients” who had been cured lived, the medical authorities from the government regularly monitored the children. While the government openly conducted enlightenment activities, saying that children are not dangerous, in reality it strictly monitored and managed them, emphasizing the public health risks posed by people affected by Hansen’s disease and their families. As a result, the general public still regarded family members as dangerous and were reluctant have any contact with them. In this institutional and social atmosphere, the children experienced a campaign that opposed their inclusion in the regular school system, overseas adoption, separation from their parents, and exclusion from the marriage, education and employment markets. They responded by hiding their identity as much as possible, but often eventually chose social isolation. For this reason, the South Korean government should also investigate the harm suffered by the children and create a system to apologize and compensate them.

第2セッション「家族とコロナ禍/パンデミック」

第1報告 家庭衛生の位相—日本の近代衛生史から考える―
香西 豊子
 近代日本において、「家庭」が一つの衛生の実践領域として見出されたのは、明治20年代である。以降、「家庭」は、衛生行政において、出産・生育・死亡、疾病の予防・治療・看護、伝染病の蔓延防止などの機能を担う最小の単位となった。本報告では、そうした近代日本における「家庭」衛生の起こりと歴史をひもとき、かつて「家庭」に期待されていた(公衆)衛生的機能について話題を提供したい。
 まずは、「家庭」衛生が日本で、「私己」衛生(「個人」衛生)とも「公衆」衛生とも異なる、特異な衛生の実践領域として発見されるまでの背景を確認する。応用学問としてのHygiene(養生法・健全学)は、幕末期に日本に紹介されたが、かずかずの伝染病の流行を経るなかで、「家庭」を「軍隊」や「学校」と並ぶ重点的領域とするようになったのだった(大正期以降はここに「労働」が加わる)。
 つぎに、「家庭」衛生の重要性が官学に認識されるのと並行して、居住地区や世帯主の職業といった細目で「家庭」を細分化し疾病への罹患・死亡にひもづける衛生統計が整備され、明治期半ばよりしだいに、伝染病のリスク集団の特定に援用されていった点を史料に見る。たとえば、明治40年代の東京市では、「細民」と標識された「家庭」は、自衛心や公徳心を欠く、伝染病の発生源ならびに温床として警戒され、警察による重点的な戸口調査をうけた。
 結びには、近代の「家庭」に期待され(実際に有し)ていたであろう諸機能が、その後、部分的に外部化されていった点を確認し、感染症の大規模流行に対する現代の「家庭」の耐性について考察する。

第2報告 コロナ・パンデミックによる社会の変化と不変化
藤原辰史
1 すでに起こっていたことの重症化
1)イタリアの事例 その1
 ギンべ財団の報告によれば、イタリアでは二〇一〇年から二〇一九年の一〇年間で公的資金からの医療費拠出が三七〇億ユーロ以上も削減しており、そのうち約二五〇億ユーロは二〇一〇年から二〇一五年のさまざまな金融操作による削減だ。[……]スペインを除くほかの西欧諸国よりも看護師が少なく、その数はEU平均を著しく下回る。医療に割り当てられる財源の削減により、と公立病院において、医師や看護師の数が減少した。国家会計監査庁の計算によると、二〇〇九年から二〇一七年のあいだに、公立医療機関は八〇〇〇人の医師と一万三〇〇〇人の看護師を失っている。
(ラッファエーレ・ブルーノ/ファビオ・ヴィターレ『イタリアからの手紙』、田澤優子訳、ハーパー・コリンズ・ジャパン、二〇二〇年、一六一–一六二頁)
2)イタリアの事例 その2
経済最先端のロンバルディア地方の経済効率優先の医療改革がもたらした医療崩壊
(松島健「イタリアにおける医療崩壊と精神保健――コロナ危機が明らかにしたもの」『現代思想』48巻, 10号, 2020年)
3)日本の事例
ネットカフェ難民(家族制度から漏れ出る人々)の苦境。ホームレスにとっての「ステイホーム」の意味
(稲葉剛/小林美穂子/和田靜香編『コロナ禍の東京を駆ける——緊急事態宣言下の困窮者支援日記』、岩波書店、2020年) 
4)食肉工場と移民
アプトン・シンクレア『ジャングル』(1905)エリック・シュローサー『ファーストフード・ネーション』(2001)の再来。移民労働者。
→家族の覆いである「社会」のさらなる崩壊と、「ホーム」へのさらなる荷重。他方で、新自由主義の終焉の入り口。直接支払的国家。
2 アフター・リベラル、中国モデルの顕在化
1)「ロックダウン」というより「シャットダウン」というべき。連邦準備制度理事会が大規模な市場介入を発表し、「経済を生き返らせた」(p.174)
(アダム・トゥーズ『世界はコロナとどう闘ったのか?――パンデミック経済危機』、江口泰子訳、東洋経済新報社、2020年) 
2)自由民主主義の崩落と、歴史の操作、怒りと憎悪の政治
吉田徹『アフター・リベラル――怒りと憎悪の政治』講談社現代新書、2020年9月
安保三文書閣議決定「敵基地攻撃能力」
3)中国は、初動に失敗後、強引にロックダウンをしてウイルスを封じ込め、経済成長を止めず、アフリカや中東欧にワクチンを送り、世界経済と温暖化対策を牽引。
(トゥーズ『世界はコロナとどう闘ったのか?』2020年)
4)香港国家安全維持法(2020/6/22)
「国家の分裂」や「外国勢力との結託」を犯罪行為とみなし、反政府活動を取り締まることが可能に。
5)ロシアやベラルーシの権威主義、戦争 →ルカシェンコ「ネズミども」
→家族を消費の対象・憎悪造成機としていっそう固定化し、さらに政治(議論・異議申し立ての場所)から引き剥がす。
3 叛乱の時代、転換期への入り口?
1)他方で、陰謀論、反マスク、反ワクチン>米国議事堂占拠事件(2021/1/6)。「参政党」の登場。エコロジストと右翼。
2)人種と階級の問題(警官によるフロイドの殺害2020/5/25、警官が黒人を背中から八発発砲、2020/8/23)→ブラック・ライブズ・マター(1500~1600万人)
3)レバノンの肥料倉庫の爆発→2020/8/8 8000人の反政府デモ
4)パンデミックが置いてきぼりにした「地球の危機」→若者の叛乱
5)「ステイホーム」による家庭内暴力の顕在化、女性への負担と自殺率の増加→新自由主義の皺寄せ装置であった家庭の弱体化。
6)コロナ禍にもかかわらず、子ども食堂が増加。アナキズム・自治への注目。
(成元哲「コロナ禍の子ども食堂」『現代思想』、四八巻一〇号、二〇二〇年)

第3報告 コロナ禍が浮き彫りにした労働と家族、そして家族ケアの課題−病に強い社会への展望
緒方桂子
 家族社会学におけるある研究は、プライバシー重視の小さな家族のなかで母親ばかりが子育て担うことを前提とした社会システムを「20世紀体制(システム)」と呼び、それが1970年代以降揺らぎはじめ、日本のみならず各国で家族ケア(子どもの世話、病人や高齢者の介護)の「脱家族化」が進行したことが明らかにした(落合恵美子編『どうする日本の家族政策』(ミネルヴァ書房、2021年)28頁[落合執筆部分])。たしかにここ30年ほどの間に家族ケアに関わる法制度は整えられてきており(たとえば、育児介護休業法、介護保険法等の制定や法改正)、脱家族化が進んだ面もある。しかし、夫婦間の家事・育児分担に着目した場合、その間の偏りが大きく是正されたわけではない。「夫は仕事、妻は家庭」という旧来の性別役割分業に代わり、「夫は仕事、妻は家庭と仕事」という新たな性別役割分業が生じているとされる(松田茂樹「性別役割分業と新・性別役割分業」哲學106号(2001年)39頁)。それは今なお、多くの女性労働者の働き方、たとえばフルタイム労働よりもパート労働を志向する傾向、家庭の事情によりキャリア形成を断念する傾向を引き起こすという形で大きな影響を与えている。
 そのようななかで生じたコロナ禍とその対策は、実際のところ、男性稼ぎ主モデル型の家族を想定したものであった。家族によるケアを前提としなければ成り立たない法政策が展開されたのである。そのことは、多様化する家族や働き方の多様性が進行する社会において多くの死角を生み出し、その死角で苦境に陥る人々が生じることになった。
 本報告では、このような実態を描き出しながら、現代そしてほんの少し未来の社会が「病に強い社会」となるための雇用労働をめぐる法制度はどのようなものかを展望したい。
参考:緒方桂子「家族ケアを行う労働者の雇用と生活の保障−日本、ドイツ及び韓国における新型コロナウイルス危機下の家族ケアと仕事との両立」南山法学45巻1号(2021年)91 -122頁

3.プロフィール
【シンポジウム報告者】
平井晶子(ひらいしょうこ):神戸大学教授 歴史人口学
中島満大(なかじまみつひろ):明治大学専任講師 歴史人口学
鈴木則子(すずきのりこ):奈良女子大学教授 歴史学
内本充統(うちもとみちと):京都橘大学教授 子ども・家庭福祉学
田中友佳子(たなかゆかこ):芝浦工業大学准教授 教育学・社会福祉学
土屋敦(つちやあつし):関西大学教授 福祉社会学・家族社会学
廣川和花(ひろかわわか):専修大学教授 歴史学
蘭由岐子(あららぎゆきこ):追手門学院大学教授 健康と病いの社会学
Kim Jae-Hyung(キムジェヒョン):Korea National Open University, assistant professor, 医療社会学・歴史社会学
香西豊子(こうざいとよこ):佛教大学教授 医療社会学
藤原辰史(ふじはらたつし):京都大学准教授 食と農の現代史。主な著書に『ナチスのキッチン』(共和国)、『給食の歴史』(岩波新書)、『分解の哲学』(青土社)、『農の原理の史的研究』(創元社)など
緒方桂子(おがたけいこ):南山大学教授 法学

【指定討論者】
鬼頭宏(きとうひろし):上智大学名誉教授 歴史人口学
野々村淑子(ののむらよしこ):九州大学教授 教育文化史
愼蒼健(しんちゃんごん):東京理科大学教授 科学史
浜田明範(はまだあきのり):東京大学准教授 医療人類学

【司会】
田間泰子(たまやすこ):大阪府立大学名誉教授 社会学
土屋敦(つちやあつし):関西大学教授 福祉社会学・家族社会学